毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今週は「残酷な二つの悲劇」について。あなたはどのように観ましたか?
※本記事にはネタバレが含まれています。
【先週】「無邪気で無知」な主人公の致命的なミス...田邊教授(要潤)との残酷な分かれ目
長田育恵作・神木隆之介主演のNHK連続テレビ小説『らんまん』の第18週「ヒメスミレ」が放送された。「ヒメスミレ」の花言葉は「ささやかな幸せ」や「愛」「誠実」だが、描かれたのは実に残酷な二つの悲劇だった。
「ムジナモ」の論文に田邊教授(要潤)の名前を記載しなかったことから逆鱗に触れ、大学への出禁をくらった万太郎(神木)。田邊は万太郎を、大学を利用して自分の手柄にだけする「泥棒」と言い、清算として植物目録と標本500点を寄贈するよう命じる。プライドも何もかもかなぐり捨てた理不尽な要求だ。
しかし、おそらくこれは田邊の万太郎への決別とともに、植物への決別でもあった。万太郎は論文を書き直し、植物学雑誌も刷り直して田邊に出禁撤回の懇願に行くが、田邊は妙にスッキリした顔で言う。
「私はもう持たざるものは数えない。せっかく生きている......なら、この手に持つものを愛そうと思ってね」
地位も名誉も持つ田邊が、一番欲しいものだけは手に入れられず諦めることを決意した――それは途轍もなく屈辱的で寂しい決断だったろう。しかし、心の傷口に万太郎の無邪気さが思い切り塩を塗る。自分は何も持ってない、身分も地位も、ただ植物を好きという思いだけと語る万太郎に、「だから植物から愛される......すごいな君は。どこまでも人を傷つけてくる」と苦笑する田邊。悲しいかな、純粋で無邪気で無知な万太郎は、ここに来てもなお田邊の苦しみを微塵も理解していないのだった。
万太郎がうなだれて家に帰ると、寿恵子(浜辺美波)と長女・園子が出迎えてくれ、寿恵子が「万太郎さんは終わらない」と万太郎を抱きしめ励ます傍らで、園子がヒメスミレを見つける。微笑ましい親子の姿だ。
万太郎は野田(田辺誠一)と里中(いとうせいこう)のもとを訪ね、博物館で研究させてもらえないかと相談する。しかし、大学と博物館は協力関係にあるため、難しいと断られてしまうが、万太郎を応援したい二人は、万太郎の才能を評価する人は他にもいると言い、ロシアのマキシモヴィッチ博士のところに行くことを勧める。
家に帰ると、奇しくも、寿恵子(浜辺美波)が手渡したのはマキシモヴィッチ博士からの手紙だった。そこにはムジナモの植物画を送っていたことへのお礼と、万太郎を高く評価する内容が書かれていたため、万太郎はロシアに行きたいと言い、寿恵子はその「大冒険」を受け入れ、一家でのロシア行きを決める。
しかし、渡航費用を峰屋に相談しようと考えていた矢先、峰屋で腐造が起こってしまい、綾(佐久間由衣)と竹雄(志尊淳)は峰屋を廃業することを余儀なくされる。泣き叫んだ後、放心状態で酒蔵に寝転ぶ綾に竹雄が「しゃんとし!」「蔵元として、目はつぶったらいかん。最後まで見届けや」と手渡したのが、ヒメスミレだ。しかし、さらなる苦難が待ち受けていた。
園子が麻疹にかかり、天国へ旅立った。悲しみに暮れる万太郎と寿恵子のもとへまつ(牧瀬里穂)が駆けつけ、二人に寄り添う。
一方、廃業を前に悲嘆にくれる綾と竹雄のもとに、分家の豊治(菅原大吉)らがやって来る。土地と屋敷を売って税金にあてるという綾と竹雄は、最後の頼みの綱として助けて欲しいと頭を下げるが、分家が救うには峰屋は大きすぎた。そのため、「先祖の墓はわしらが守っちゃる」と言い、綾と竹雄に新しく人生をやり直すことを勧める。
先祖の代から続いてきた峰屋が潰れるのは、何より辛く、本音では言いたいこともあるだろう。なにしろ「酒蔵に女が入ると酒が腐る」という昔からの伝承を破って、女性である綾が蔵元となり、さらにずっと続いてきた伝統的な酒造りの方法に手を加え、火入れのやり方を少し変え、新しい時代の新しい酒を造ろうとした後の「腐造」だ。しかし、豊治らは決して綾たちを責めなかった。
それどころか、腐造は酒屋である限り起こる、誰でも起こると言い、「峰屋を殿さまの酒蔵・峰屋のままで幕を閉じた」として労うのだった。
ここまで万太郎の光に照らされるように、周囲の人々にもエネルギーが伝播し、前向きな変化が次々に起こっていった。ところが、万太郎の光――植物を研究したいという思いが消されようとしたとき、周囲でも光が消えていく。辛いことは重なるもので、そうしたとき、人はつい、その不可抗力の理由を自身の内側に求めようとしてしまう。福治(池田鉄洋)が語った「身の丈に合わねえ望み」という、自分の中の落としどころ、諦めどころにすがるように。
しかし、どんなときでも花は咲く、どんなときにも小さな幸せはあるのだということを「ヒメスミレ」という小さく可憐な花になぞらえ、園子と峰屋という二つの命が示唆した18週だった。