「こんなご時世だけど、前を向こう」。みんな無理してポジティブに振る舞っていますが、疲れている人もいるのではないでしょうか。僧侶の南直哉さんは「人生を棒に振ってもいいくらいの気持ちでいい」と言います。その南さんの著書『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』(アスコム)より心をラクにするヒントをご紹介します。
【前回】悩みは思い込み。解決方法は感情と現実を切り分けること/「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本
自分のためではなく、誰かのために何かをする
「何を大切にして生きたいか」を考え、自分のやるべきことを見極められれば、日々の生活の中に、具体的な喜びや楽しみが生まれます。
「人生を棒に振るつもりで生きたらいい」と話すと、切羽詰まった口調でこう聞かれることがあります。
「その、棒に振るというのは、どうすればいいんでしょうか!?」
「何もしないことでしょうね」と答えたいところですが、人は何もしないではいられません。
それに、「まったく無責任な坊さんだ」と言われかねないので、こう答えます。
「自分のためではなくて、特定の誰かのために何かをすることですね」と。
話が飛躍しましたが、私が言いたいのはこういうことです。
人は、人生になんらかの意味を感じないと生きられません。
そして、人間の最大の欲求が「誰かから認められたい」ということです。
では、人から認められるにはどうすればいいか。
それは、「自分のなすべきこと」をなすことです。
自分のやりたいことではなく、「やるべきだ」と信じていることです。
簡単に言えば、「何を大切にして生きたいか」を考えて、それをやることです。
誰を大切にしたいのか。
何を大切にしたいのか。
この2つについて考えるのです。
自分のためでなく「誰かのために」「何かのために」なすべきことをする。
将来は変わっても構わない。
少なくとも「今」、自分がやるべきことは何かを考えるのです。
私はこのことを「自分のテーマを決めて生きる」と言っています。
「なすべきことをやったほうが得だ」と言っているわけではありません。
まったく別の話です。
自分の損得や感情を、まず外すこと。
「得したい」「ラクしたい」という感情を脇において、今何が自分に起きているかを見て、「べき」を考えるのです。
それを見極めるとき、「得したい」「ラクしたい」は、大きなバイアスになります。
私がひとつの手本だと考えるのは、職人の生き方です。
大工さん、農家や庭師、豆腐屋さんやお寿司屋さん、事務職あるいは技術職の人、どんな職業でもいい。
「職人」「職人技」と認められるほどの腕があり、仕事で評価されている人たちは、「やるべきこと」が決まっていて、それを最優先に生きています。
すると、人に対して見栄やてらいがほとんどありません。
自分自身が評価されなくても、"自分の仕事"が評価されればいいからです。
彼らは、それ以上の満足も承認も必要としていません。
「仕事が認められること」が「自分が認められること」なので、結果的に自分自身に対する執着が消えてしまうわけです。
彼らの関心は、いいものができるかどうか、満足のいく仕事ができるかどうかだけに向けられています。
そして、「今日もよく働いた」と晩酌をしてくつろぎ、一日を終える。
日々の生活の中に具体的な喜びや楽しみがある。
うらやましい生き方です。
自分の「べき」をはっきり見られるようになれば、「~したい」に振りまわされることはありません。
他人から見てどう思われるかと、いちいち顔色をうかがうこともありません。
また、「~したい」ではなく、「~するべき」というところから何かをやれば、必ずそれを認める人が出てきます。
といっても、それが大げさなことである必要はまったくありません。
自分の中に「やるべきだ」という確信があり、人にその理由を説明できること。
つまり、何を選択するにしろ、「なすべきこと」とは欲望ではなく、価値なのです。
ただし、自分の乏しい能力と限られた時間の中で、何が狙えるのかをシビアに考えないと意味がないでしょう。
「あれも、これも」は、まず無理だと理解することから始めてください。
ただ、私はそれもすべて幻想だと考えます。
しかし、人には幻想が要るのです。
自分がどの幻想を選んで生きるのかを決めることが、「べき」を決めることです。
そして、「べき」が幻想だとわかったうえで、結果を期待したり見返りを求めたりせず、思いどおりにならなくとも仕方がないというスタンスでやらなければいけないのです。
それを覚悟でやるのが「生きる」ことです。
自分が選んだ「べき」が、しょせんは幻想だとわかっていれば、力む必要もないでしょう。
たまたま生まれてきた「自分」です。
「人生を棒に振ってもいい」と思って取り組むくらいで、ちょうどいいのです。
夢や希望という重荷を下ろし、感情に振り回されない生き方のヒントを全4章にわたって解説