老後資金のために「そろそろ真剣に貯蓄しなきゃな...」と思いつつ、でも実は「お金」について真剣に考えたことはない、という方も多いのではないでしょうか?そこで経済評論家の佐藤治彦さんの著書『お金が増える不思議なお金の話』(方丈社)から、佐藤さんの実体験をもとにまとめた「人生が楽しくなるお金の捉え方」のエッセンスをお届け。まずは身近なところから「お金」について考えませんか?
「アリとキリギリス」を疑うようになって
若いときに油絵を一枚買った。それは、知り合ったある老画家の作品で、平安絵巻の世界を連作で描いている人だった。月に2回、土曜の午後に原宿・表参道の裏通りで開かれていた絵画教室の先生だった。僕は就職したばかりで、20代のはじめのころだった。
学生時代に、作家の遠藤周作さんが主宰されていた素人劇団「樹座」に入れてもらった。その劇団に、遠藤小説の挿絵などをよく描かれている老画家・秋野卓美さんがいた。劇団にはいろんなサークル活動があってそのひとつが絵画教室だった。
僕はその絵画教室の幽霊メンバーだったが、ふと出席しては静物画や裸婦を描いた。ときには小旅行をして写生もした。絵を描くだけでなく、その不思議なグループにいるのが面白かったんだと思う。みんなで酒もよく飲んだ。僕は若かったので、いろんな無礼も大目にみてもらっていた。ある宴席で気持ちよくなって老画家に質問した。
「先生の絵は、いくらくらいで買えるんですか?」
そう注文したときには30万円ということだったが、半年後に絵が出来上がったときには40万円と言われた。バブルの時代だったのだ。
楽しい関係に影響をさせたくなかったので、そのまま払った。もしも30万円と言ったのを40万円と自覚して言ったのであれば、相手のほうが気まずいに決まっている。もしかしたら、忘れていたのかもしれない。宴席で僕がそんなことを言うものだから、40万円と言いたかったのを30万円と言ったのかもしれない。そこいらへんは、いまでもわからない。
僕はごく平凡な普通のサラリーマン家庭に生まれた。そんな家庭は油絵など買わない。
家には、デパートの即売会などで手に入れた1万円くらいのルノアールやバルビゾン派のほぼ印刷な名画のコピー絵画は飾られていたが、どう考えても中身よりも額のほうが高そうだった。壁には名画を綴ったカレンダーから母がお気に入りの作品を額に入れたものも飾ってあったが、それらは日に焼けて退色していた。
実は、わが家には油絵もあった。それは、ご近所づきあいしていた美大卒の母の友人が、描いてくれた母の肖像画だった。首がちょっと長めのモディリアーニ風の作品で母のお気に入りだったが、プレゼントだった。
そんな家だったので美術には理解があると思って、自分の給料で絵を買ったことを言った。「仲のいい人から世界に一枚しかない絵を買った」と伝えた。しかし、自立するまで自宅にその絵をかけることはできなかった。親の評判はすこぶる悪かったのだ。「40万円も出して絵を買うなんて何様だ!」というわけである。絵がいい悪いではない。親の経済感覚からいったら、まったく狂ったことを息子はしでかしたのである。
だから自分の部屋であったとしても、その絵を見るたびにイヤミを言われそうな気がして、しまったままにしておいた。両親のもとを離れて、はれて部屋にかけた。住んでいたマンションは狭かったが、不思議とその絵のある場所は家の中心となった。
コーヒーを煎れて飲んでいるときに、ふわっと視線はそちらを向いていた。帰宅して電灯を灯したときに、いちばん最初に目に入ってくるのが秋野先生の平安絵巻の世界。そんな不思議な毎日が始まり、いまも続いている。
世界中には、さまざまな絵画がある。それぞれの作品を画家がどのくらいの時間を使って描いたのかはわからない。しかし、その絵を描くために美術家になった人たちは、幼いころから美を意識して生活をし、教育を受けただけでなく、それで食っていくぞと決断し、訓練や修行を重ねる。何十年もかかって初めてひとつひとつの絵を手がけることができるようになる。絵の中に、美を追い求めた画家の人生の結実が投影されている。
だから、絵のかかっている場所は、ひとつ次元が違う世界がそこにできあがる感じがする。そんな場所が、自分の家の中には確実に存在するようになる。だから、自然と目がいってしまうし、意識もする。それを毎日眺めることは僕の楽しみであり、美しいものを見たときに感じる喜びも与えてくれる。とくこの絵は、「源氏物語」を題材にした日本の世界を描いた洋画だ。意識はしないが、何か根っこに迫ってくるのだ。
僕が絵を買ったことは、かつての金満日本がやったような投資のために絵を買うのとは違う。何千万円、何億円も出して絵画を買い、しまい込んで値が上がるのを待つのとは根本的に違う。それでは、絵画も原油や金の先物取り引きと同じ、投資対象におとしめてしまうことになる。絵そのものを楽しむわけではない。
僕の場合、半分は成り行きで買ったのは事実だ。衝動買いではないが、酔っぱらったときの勢い買いである。勢いがなければ、若造に絵などは買えない。でも、買ってよかった。若気の至り、万々歳である。
部屋に絵をかけてから20年以上経つ。15年前にその老画家はこの世を去った。その後も、この絵は部屋にあって僕の心を揺さぶってくれている。絵画そのものもすばらしいだけでなく、「佐藤クンは僕の絵を買ってくれた」と、酒が入るといろんな人に言っていた老画家のうれしそうな笑顔と、若くてヤンチャな自らの日々の思い出も心に蘇る。
僕があと20年生きるとすると40年、この絵を楽しむことになる。1年1万円で楽しんだことになる。これはそんなに高い買い物だろうか?
絵画だけではない。若いときに飲んだ高級ワイン、背伸びして出かけた寿司やフランス料理......。それらの経験は自分の中に蓄積されて、次のワインに出会うときの、食事をいただくときの羅針盤になってくれている。けっして「1回食べて、はい、おしまい」ではないのだ。
旅行や観劇、スポーツ、さまざまな経験はかたちとしては残らないが、思い出として僕がこの世を去るか、もしくはボケてしまって何が何だかわからなくなるまで、笑顔とともに生涯を通して心に寄り添い、繰り返し楽しむことができるのだ。
人生80年として、20代の経験は60年間もその経験を楽しめるが、60歳での経験は20年だけだ。
日本人はイソップ物語の「アリとキリギリス」が大好きだ。若いときに我慢していると、あとで楽ができるという論理だ。子どものころに枕元で、親が絵本で何度も読んでくれた。幼稚園でも聞かされたし、テレビのアニメでも見た。しかし、あれはいかがなものか? なぜなら若くして死んだらどうするんだろう?
若いときの楽しい思い出は、残りの人生でも素敵な経験として日々を彩ってくれる。若いときは我慢したのだから、年齢を重ねてから、さあこれからは少し自分に贅沢をしようという「アリとキリギリス」的なやり方は、ときに破綻する。
60歳になって高価できれいな服を着られるとしても、きっと「若く、もっと美しいときに着たかった」と思うだろう。「うまいものを食べるぞ」といっても、70歳になってのフランス料理フルコースには食欲も細る。楽しむタイミングが少し遅すぎるというわけだ。
それでもまだ、気がついてお金を使って楽しむことに人生のギアチェンジができた人は幸せだ。なぜなら、若いときからの生活習慣はなかなか変えることはできないものだからだ。そのまま年齢を経て健康を害してしまって、我慢して作った資産を使えない人が大勢いる。
小さなアパートに住みながら、亡くなってみたら貯金通帳に4000万円残していたなんてことはよくある話である。「アリとキリギリス」のように、「冬になってアリは夏のあいだに蓄えた食料で幸せに暮らしました!」ということにならないこともあるのだ。
5年以上前に、人気テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』にゲスト出演したことがある。
ディレクターさんが家にやって来て「何か鑑定に出してもらうものはないですかね?」と言われ、ITバブルがはじけたあとに買ったクリストという現代作家の美術品を出したことがある。買った価格は10万円だったのだが、50万円と鑑定された。
すでに10年近く部屋に飾って楽しんでいた。10万円で買うときに、40年楽しむとしたら、毎年2500円か......安いな、買おうと判断して買ったものだ。それが、楽しんだだけでなく、値段も5倍に上がっていた。
美術をさんざん楽しんで、経済的にも得をしたことになる。
絵を描くことはしなくなったが、いまでも日本で開かれる美術展に出かける。国内で開かれる美術展で、僕がとても気になっていることがある。それは、印象派以降の美術展が開かれると、その絵画の多くに日本国内の美術館だけでなく、企業や個人所有のプライベートコレクションからの出展が多いことだ。
ルノアール展やミレー展でもヨーロッパやアメリカから作品を借りてくるだけでなく、国内の個人や美術館からも絵画を借りてイベントを成立させている。
楽しむためでなく投資として売買される絵画がある。人々を楽しませるのではなく、大切に倉庫で保管される絵画だ。
たとえ投資で買ったものであったとしても、人を楽しませているものであってほしい。家庭や社内で展示され人々を楽しませているものなのか。実は、とても気になっている。
いや、きっと僕だけでなく、画家本人だって、それも秋野先生だけでなく、ゴッホやエゴンシーレ、ルノアールだって気にしているはずだ。ピカソも葛飾北斎も同じはずだ。
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