同居や介護、相続など、親との関わりがより深まってくる40~50代。でも、それ以前に「親子の関係」がギクシャクしているとまとまる話も、なかなかまとまりません。そこで、親子の間にわだかまりが生まれるのは、「そもそも親に原因がある」と説く人気心理カウンセラー・石原加受子さんの著書『「苦しい親子関係」から抜け出す方法』(あさ出版)から、苦しみの原因と解決策を連載形式でお届けします。あなたのお家は大丈夫ですか?
支配関係はお互いに依存しあう関係
「子は親に従うべき」という親子の関係は「支配関係」と言うことができるでしょう。ですが、その実は、お互いに依存している「共依存」の関係でもあります。
一般的には「支配関係」と言うと、一方が上で一方が下と見なしがちです。あるいは「支配者」と「被支配者」という捉え方もされます。けれども精神面で見ると、どちらも相手に依存している状態です。
イメージしてみればわかるのではないでしょうか。「自立」というのは、自分が一人で立っています。「支配関係」は、支配者であろうと被支配者であろうと、それぞれに"独立して立つ"ことができません。一人では、倒れてしまいます。相手に依存し合うことと、互いに協力し合ったり助け合ったりすることとは違います。
すなわち支配関係もまた、共依存の関係だと言えるのです。決して、支配者が強くて、被支配者が弱いというわけでもありません。見かけ上、支配者が強く見えるだけで、実際には、支配者は被支配者がいないと、何もできない、という状況に陥っています。被支配者だけでなく、支配者も相手なしには存在し得ないのです。
例えば、親子が互いに「私が正しい」と思い込んで主張をしていたとしても、「自分が正しい」と、心から信じているわけではありません。
多くの子どもが、そして親もまた同様に、相手に対して、「私の言っていることを、理解してほしい。わかってほしい」「私の望むことを汲んでほしい。認めてほしい」と訴えます。
どちらも、強制的に高圧的に、あるいは迫ったり恫喝したり、すがったりと、自分独自のやり方で、相手に理解や同意や許可を求めようとします。
けれども、もし、心から「自分が正しい」と信じていたら、それを相手に「認めてもらおう」としたり、「了解や許可を得なければならない」と思ったりする必要があるでしょうか。
それはあたかも、「何が何でも、親がAが正しいとわかってくれなければ、自分がAと主張してはいけない」と言っているようなものです。
子どもが「Aが正しい」と主張し、親が「いや、Bが正しい」と主張したとしても、子どもが「私はAを選択する」と決めたら、それを実行すればいいだけでしょう。
もちろん、そのようなきっぱりとした態度がとれずに、罪悪感や恐れや不安が出てくることが問題だと言えるのですが、論理的には、親の同意や許可を必要としないことは多々あります。
「他者中心」の言動パターンが身についてしまう
こうした親子関係によって身についてしまっているとりわけ特徴的な言動パターンが、「他者中心」というものです。そしてその対極にあるのが「自分中心」です。これは私がカウンセラーとしての経験の中で体系づけていったもので、総称して「自分中心心理学」と呼んでいます。
両者の決定的な違いは、文字通り、自分を中心にして生きるか、他者を中心にして生きるかという点です。
「自分中心」は、自分の気持ちや欲求や意志といった自分の心を基準に判断、選択し、そして行動していきます。可能な限り自分の心に寄り添い、自分に嘘をつかない、自分を裏切らない。そして、自分を満たすことです。
こんなふうに自分の心を基準にすれば、あらゆることが、「自分を認める」ことや、「自分の自由」や「自己信頼」につながっていくでしょう。
「自分中心」では、自分の心と身体が感じる「感じ方」を重視します。なぜなら、その「感じたこと」が、自分を大事にする情報となるからです。
一方「他者中心」は、他者や外側や外界を、自分が判断し選択し、そして行動するための基準とします。一般常識、習慣、規範、規則、ルールといったものだけでなく、好ましくない伝統や家風といったものもその中に入ります。自分の心よりも、外側にあるものに、自分を合わせようとしたり、適応させようとしたりします。
そのために、自分の心よりも「思考や知識」が優先されます。損得勘定や勝ち負けの意識も、こんな他者中心から生まれます。
「自分中心」がしばしば勘違いされやすいのは、自分の欲求や願望のために何が何でも自分の主張を通そうとする、いわゆる「自己チュー」です。この「自己チュー」は「自分中心」ではなく「他者中心」の中に入ります。
自分の都合や自分の欲求・願望のためには「人を傷つけてもいい。人の物を奪ってもいい。人を威圧したり脅したり、強制してもいい」という支配的な発想は、他者中心の最も悪しき面だと言えるでしょう。
「私を認める。相手を認める」は、自分中心の基本の考え方です。
なぜなら、そうやって他者中心になって人と戦わなくても、自分を大事にできるし、人と調和することもできるからです。
「してやった」が母と娘の争いの元凶
他者中心の典型は「してやった。してあげた。気をつかってあげた」という意識に見ることができるでしょう。親子関係ではこれがいっそう強固になります。とりわけ母親と娘の間では、この「してやった」が争いの元凶とも言えます。
そもそも「してあげた」という言葉が日常的に口に出てしまうとしたら、すでに典型的な他者中心のパターンに陥っています。自分の心を無視している、というよりは自分の気持ちや感情、欲求に気づいていない状態だと言えます。
これが、世の母親、父親の意識の底に根付いているであろう「我慢の意識」です。例えば母親が、夫のため、息子や娘のために「してあげている」というふうに思って行動しているとき、母親の目に映っているのは自分ではなく、相手の姿です。
そして「相手のために」と発想して行動しようとしているとき、母親は自分の心の状態に気づいていません。もしかしたら、母親はそのとき、「したい」と思っていないのかもしれません。むしろ「したくない」けれども、「妻だから、母親だから、しなければならない」と、それを自分に強制し、我慢しながら渋々やっているのかもしれません。
我慢していれば、必ずそこには不満があります。心から"自分がしたい"というポジティブな感情で行動するのであれば、それは「自分の欲求」が動機になるので、「ああ、できてよかった」という満足感が残るでしょう。
けれども、「したくないけど、母親だから、家族のためにしなければならない」という義務感や責務感でやれば、不満が生じます。
このように「してやった。気をつかってあげた」意識で行動すれば、必ず不満が残ります。その不満から、相手に感情をぶつけたくなってしまうのです。
しかもそのようなとき、相手のほうは、本当はそうされることを「迷惑に感じている」ことが少なくありません。迷惑に感じているけれども、「母親を傷つけたくない」と思って、我慢しながら「されてやっている」のです。
つまり「してやっている親」も「されてやっている子ども」も、共に我慢しているのです。その我慢が、争いへと発展していきます。もちろん争ったところで、心がスッキリするわけではありません。反対にますます相手にこだわることになり、共依存的な意識は一段と強化されていくことになります。
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