早すぎる終活は後悔のもと
定年を境に終活を意識し始める方は多いですが、慎重に考えたほうがいいでしょう。
人は誰しも、自分がいつ死ぬかを知りません。しかも人生100年時代、死ぬ時期はたいてい予想よりもあとになります。
終活のつもりで性急にものを手放すと、あとから「やはり必要だった」と悔やみ、喪失感に駆られる可能性があります。手に入りやすいものならばまだいいのですが、貴重なものだったり、秘密のコレクションだったりした場合、手に入れ直すのは心身ともに多大な負担となります。
死んだあと、見られたら恥ずかしいと思うものが、誰にでも多かれ少なかれあるでしょう。パソコンやスマホに保存してある画像や映像にも、そうした類のものがあるかもしれません。
これらも、あわてて手放すのは禁物です。そういうものは例外なく思い入れの強いものなので、70歳、80歳、ときには90歳を過ぎても、まだ見たいかもしれません。
エンディングノートを書くより、生きている時間が大事
終活では、ほかにも、「エンディングノート」や遺言書に、自分の死後にどうしてほしいかを書いておこう、と推奨されます。
しかし、60代ではまだ、死後と言われても現実感が湧かないでしょう。
同じ準備をするなら、この世に存在しなくなってからのことより、生きている間のことを考えたほうがよほど有意義です。
たとえば、「任意後見」という制度。これは「成年後見制度」とは別のものです。成年後見制度は、本人が判断能力を失った際、家庭裁判所が選んだ後見人が、本人に代わって契約などの大事な判断をするというもの。対して任意後見制度は、本人が判断能力のある間に、「この人なら」という人を選べて、かつ、自分がしたい生活の形を伝えておくことができます。
「認知症になったら、自分がしたい生活なんて忘れるだろう」と思うのは間違いです。好き嫌いの感情や価値観は、しっかり残ります。重度の認知症の方でも、「今日はカレーが食べたい」といった希望をはっきり示すことがあります。そうした気持ちをスムーズに伝えられなくなる未来を見越して、早めに手を打っておくことなら、私も大いに推奨します。
つまるところ、「生きている間の時間を楽しむため」以外の終活はしなくていい、というのが私の考えです。
<POINT>
子どもの要望や世の中のブームに乗って身の回りを整理する必要はない。