2月1日、民主化が進んでいたミャンマーで軍事クーデターが勃発。以来、弾圧による死者の数は増え続け、解決の糸口さえ見えていません。そこで今回は、京都大学 東南アジア 地域研究研究所 准教授の中西嘉宏(なかにし・よしひろ)先生に「ミャンマーの軍事クーデター」についてお聞きしました。
ミャンマーで2月1日、実質的な指導者だったアウン・サン・スー・チー氏を国軍が拘束して政権を奪取するという軍事クーデターが起こりました。
その後スー・チー氏の解放を求めるミャンマー国民は連日のようにデモを起こしましたが、国軍や警察による弾圧により5月時点で死者が800人を超えるという痛ましい事態になっています。
民主化が進められていたように見えたミャンマーで、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。
ミャンマー情勢に詳しい中西嘉宏先生は「スー・チー氏やスー・チー氏が率いる国民民主連盟(NLD)と、国軍の間で成り立っていた微妙なバランスが崩れたからです」と指摘します。
なぜ「微妙なバランス」が崩れたのでしょうか。
中西先生は「それを知るには、歴史を振り返る必要があります」と話します。
アウン・サン・スー・チー氏ってどんな人?
1945年生まれ。父はビルマ(ミャンマーの旧国名)独立を目指して活動し、達成目前だった47年に暗殺されたアウン・サン将軍。スー・チー氏はミャンマー民主化運動の指導者で、2021年2月の軍事クーデターまでは国家元首を務めた。1989年7月から95年7月まで、2000年9月から02年5月まで、そして03年5月から10年11月までと3度にわたり軍事政権によって拘束、自宅軟禁される。1991年10月にはノーベル平和賞受賞。
軍事クーデターまでの年表
上の年表を見てみましょう。
1962年より軍事政権が続いていたミャンマーですが、88年に新しい軍事政権に変わったのがきっかけとなり、90年に連邦議会の総選挙を行いました。
「その際に勝利したのが、スー・チー氏率いるNLDです。国軍は、これによりいずれは政権を文民政党に移譲しなければならないと考えるようになりました」(中西先生)。
その後2010年に20年ぶりに総選挙が行われますが、上の表のように国軍の息がかかった連邦団結発展党(USDP)が大勝します。
「つまり、国軍は文民政党に政権を移譲しながらも、実権はそのまま維持しようとしたのです」(中西先生)。
ただ、この選挙では国軍が思った通りに事が進みましたが、15年に行われた総選挙で話が変わります。
ミャンマー連邦議会の議席数の推移
2010年
2015年
2020年※ミャンマー連邦議会には上記の総選挙によって選出される議席以外に、国軍総司令官により指名される軍人の議席もある
上の表のように、スー・チー氏率いるNLDが圧勝したのです。
「国軍は、スー・チー氏の支持者以外の層がNLDに投票するとは考えていなかったのです」(中西先生)。
ミャンマー連邦議会の総選挙は5年に一度。
「国軍は5年我慢すればいいと思ったのでしょうが見通しが甘く、その次の20年の総選挙でもNLDが大勝します。5年だけならまだしも、さらに5年我慢するのは無理だと国軍は感じたのでしょう」と、中西先生。
国軍は総選挙の再集計を求めましたが、スー・チー氏はこれを無視。
そこで国軍が選んだのが、2月1日に行われるはずだった総選挙後初の連邦議会の前にクーデターを起こし、実権を奪うことでした。
「国軍とスー・チー氏は憲法改正などを巡り関係が悪化していました。それでも微妙なバランスで成り立っていたのが、今回ついに崩れたということになります」(中西先生)
スー・チー氏はいま、身柄を拘束されているだけではなく、国家機密漏洩罪など6つの罪に問われ、刑事訴追されています。
「このまま何らかの罪が確定し、禁固刑などの刑事罰を受ける可能性が高いです。スー・チー氏が目指していた民主化への道は事実上断たれました」と、中西先生。
日本からミャンマー政府に対して、「この約10年間だけで合計8000億円以上の政府開発援助(ODA)が行われています」(中西先生)。
ODAの原資は、私たちの税金です。
軍事クーデターで成立した政権にこれまで通り援助を続けるべきなのかどうか、納税者である私たちは考えていく必要がありそうです。
※この記事は6月8日時点の情報を基にしています。
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取材・文/仁井慎治 イラスト/やまだやすこ