政治番組への怒りをどうすれば...?/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回は「知らないことを知る」の第2回。政治番組に不満を持つ読者からの相談への岸見さんの答えは......。ぜひご一読ください。

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何ができるかを考える

読者からの相談を見てみよう。

「テレビなどで政治番組を見ていると頭にくることばかり。夫婦で同じことで怒っていますが、何の解決にもならないこの怒りをどこへぶつければいいのでしょう」

政治番組を見ている時の怒りは不正に対するものである。正義に照らして、間違っていることは間違っていると主張することは必要である。その時の感情は理性的で「公憤」というべきもので、個人間の衝動的で感情的な「私憤」としての怒りとは違う。

前に(第12回)エピクテトスの、「自分の権内(けんない)にないことについては、忍従の他はない」(『語録』)という言葉を引いた。「権内」とは「力の及ぶ範囲内」という意味なので、権内にないというのは、自分ではどうすることもできないということである。たしかに自分ではどうすることもできないことはあるが、実際には「権内」のものを「権外」だと考えて何もしないところに悪は起こる。

できるものなら、若い人とも今の政治のどこが問題なのかをきちんと話し合ってほしい。政治のことについて議論することは、対人関係を損なう可能性がないとはいえない。しかし、不正に対して怒りを感じないことは問題である。

「消費税が引き上げられてもしようがないですね、できることは協力したいですね。裁判員に選ばれたらもちろん仕事を休んでいきますよ」というふうに考えてしまう人は、小田実(おだまこと、作家、1932-2007年)の言葉を借りるならば、「される」側ではなく「する側」から考えているからである。政治家ではないのだから、自分のことは棚上げにして政府の施策や法律の是非を論じるのではなく、どういう影響が自分に及ぼされるかを考えなければならない。

夫婦で同じことで怒っているというのであれば、どちらも「される側」から考えているということである。

「生涯現役の考えで働いてきましたが、自分がなし得ていない何かや社会への還元・貢献ができなかったという思いが残っています。これでいいのだろうかと親の介護をしながら生きることや人生を重ねてしまいます。
世界の混沌が激しく身近なものに感じられるだけに非力、微力を痛感しています」

自分のことにだけ関心を向けるのではなく、社会へ目を向けることは大切なことである。

自分を安全圏に置いて考える人は世界の混沌を自分の問題としては考えられない。自分の問題として考えられるからこそ、自分には何ができるかを考えられる。自分に何ができるかを考えるからこそ、自分が非力だと感じるのである。自分のことに結びつけずに世の中の問題を考える人は問題があってもそれを変えようとはしない。だから、自分が非力であると考えることもない。社会に関心があればこそ、自分ができないことに注意が向くのである。

それでも、一人の力は大きいと考えてほしい。一人の力が世界を動かすからである。

思いを受け止めよう

「一人暮らしを長年していた母が八十六歳の時、心筋梗塞で倒れて亡くなってしまいました。『施設には絶対入りたくないから』と日々いわれていたのに『いつかは入らなければならないかも』なんていっていた私。入所しないで終わりましたが、今自分が一人暮らしになり『入らなくていいよ』とどうして優しい言葉がいえなかったのかと思います。母は悩んでいたのでしょう。今も時々思い出しては悔やんでいます」

子育てと同じで、介護は後悔の集大成といっても過言ではない。あの時こういっていればよかったというようなことを後になってしきりに思い出す。

それでも、その時にできる最善の選択をしていたはずである。施設に入る、入らないという判断は難しい。施設に入らなくてもいいというようなことを軽々にいうことはできない。

この方のような立場に置かれた時、どう対応できるかといえば、現実的に可能かどうかということは別として、親のいっていることを否定せず、「施設に入りたくないのね」と親の言葉を受け止め、なぜそういわれるのか理解に努めてほしい。

自分が親の立場であれば、子どもに何かをしてほしい、あるいは、してほしくないと話した時に、それに対して一般的な答えが返ってくれば残念に思うだろう。大事なことは、実際にできるかできないかではなく、自分の気持ちをきちんと受け止められたと思ってもらえることである。

私は冠動脈のバイパス手術を受けたことがあるが、手術の前日に主治医の一人から手術を受けないという選択肢もあると聞いて驚いたことがあった。これは医師の方からの提案ではあったが、いよいよ明日手術という前の晩に今から手術を受けないという選択肢があるのかとたずねたら、答えは「あなたの身体なのだから、あなたが自分で決めればいいのだ」という非常にシンプルなものだった。

結果的には予定通り手術を受けたが、手術を受けるということの意味について改めて考えることになったと共に、人生の一大事なのだから、断ったら他者からどう思われるかとか、迷惑をかけることになるのではないかというようなことは考えなくていいことを学んだ。

自分を受け入れよう

「昨年姑が亡くなりました。場所は自宅でも病院でもなく、深夜の屋外です。溜飲が下がるとは言い過ぎでしょうか。それまでの姑の言動からすれば、ぴったりの死に様だったと思います。『人』としてこんな感じを持つのはどうなんでしょう」

姑との長年の関係を考えた時に、姑に対してこのような感情を持ったことが「悪」であるとは断言できない。

このような感じを持つことは道徳的に問題がある、人として許されないと他の人が非難することもできない。長く一緒に暮らしていれば、ぴったりの死に様だとまでいう人は少ないかもしれないが、自分を苦しめた人に対してネガティブな思いを抱かなかった人は少ないだろうし、実際、このような経験をしたことがなくても、この人の立場に身を置けば自分も同じように感じたかもしれないと共感できるだろう。

自分の問題としては、このような思いを抱いていたにもかかわらず、それをごまかす方が問題だと思う。いいことだとまではいえないとしてもである。

病院で長く母を看病していた時、私は毎日十八時間も病床にいたので、本当に疲れてしまい、ある時、もしもこんな状態が後一週間続いたら、私の方が母よりも先に死ぬかもしれないと思った。私がこう思った一週間後、母は亡くなった。あんなことを思わなければ、母はもっと長生きしたのではないだろうかといつまでも後悔した。

もちろん、このように思ったことと母の死には何の因果関係はないのだが、このような思いを抱いたとしても、そのまま受け入れるしかないのである。

とはいえ、自分が姑の立場であればどうふるまったか、自分は決してあのような言動はしないと言い切れるかということ考えてみなければならないと思う。

我慢する前にできること

「結婚して四十年が経ちましたが、数年前から夫と私のものに対する考え方や興味がどんどんかけ離れていって、今では話をするのも嫌になるぐらいストレスを感じます。夫は間違っていても、九十九パーセント認めず言い訳だらけ。気に食わないと私の質問にも耳を貸さず、自分の言いたいことは私が嫌っても聞かせます。先の短い時間と私は割り切って夫のやりたいようにさせていますが、時々疲れます。我慢はいつまで続くのか」

我慢しなくていい。夫の態度で改善してほしいことがあれば、それはきちんと言葉で伝えたらいいのである。

言い訳をする人は劣等感を持っている。相手の言葉に耳を傾ければ自分の考えが間違っていることが露わにされるので話をしようとしない。いわれるまでもなく自分が間違っていることはわかっているのである。

どちらが正しいかどうかというのは前回から見てきたように本当のところはわからないのである。絶対私の方が正しくて、夫が間違っているというふうに考えずに、考えを聞いてみたらどうだろうか。理解すること、少なくとも理解しようと努めることと、賛成することとは別物である。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年8月号に掲載の情報です。

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