大切な家族や友人の死は、その先の人生を左右するほどの深い悲しみに包まれます。そんなつらい体験が、「苦しいことだけでなく、人生で最も大切なことを教えてくれる」という聖心会シスター・鈴木秀子さんは、著書『死にゆく人にあなたができること』(あさ出版)の中で大切な人を幸せに送り出すためのヒントを教えてくれます。今回は同書から、死との向き合い方を気づかせてくれるエピソードを厳選してお届けします。
【最初から読む】「私が死んでも悲しまないで・・・」死にゆく教え子への祈り
家族との別れ、そして旅立ち
翌朝、亜沙子さんから電話がありました。
「今日が山場だとお医者さんに言われました。先生、午後にでも来ていただけませんか」
季節は、その年の桜前線が東京にも近づいているころでした。
窓を開けると、外はいつもより春の訪れを肌で感じられる穏やかな空気に包まれていました。
こんな、うららかな春の日に奈緒子さんは旅立とうとしている。
私は自然の摂理というべきものを感じずにはいられませんでした。
病室のドアを開けると、夫のUさんと三人の子供たち、姉の亜沙子さん、そして親しい友人の方がベッドを囲んで奈緒子さんを見守っているのが見えました。
亜沙子さんとUさんは私に気づき、「よろしくお願いします」と言いながら、ていねいなお辞儀をしてくれました。
一家の主として、なんとかしっかりしなければいけないと、Uさんは必死で悲しみをこらえているように感じましたが、その顔には疲労と苦悩がにじんでいました。
家族のみなさんが静かに動き、私の場所をつくってくれました。
私は厳粛な思いで心を整え、奈緒子さんとご家族の最期の時間に立ち会いました。
静かに目を閉じる奈緒子さんの呼吸は、もうずいぶん弱くなっていましたが、ひょっとして回復に向かっているのではないかと思えるほど肌の血色はよくなり、穏やかな表情を浮かべていました。
「奈緒子さん」と声をかけると、まぶたが微かに動きました。
私の声が聞こえているようです。
「今、あなたを心から大切に思っているご家族が、みなさんここにいます。あなたは独りではありませんよ」
そう言いながら、胸の上で軽く組まれた彼女の手に私は手を添えて、息を長く吐きながら呼吸を合わせ、静かにやすらぎと癒しの祈りを捧げました。
最期に不安を感じないように、ゆっくりと、何度も、孤独ではないことを繰り返し伝えていきます。
私は、集まったご家族全員にもいっしょに呼吸を合わせるように伝えました。
そうすることで全員の呼吸が溶け合い、一体感が生まれます。
私たちを邪魔するものは何もありません。
部屋全体が日常とは異なる次元の、一つの静謐な宇宙のように変わっていきます。
もうそこには不安や怒り、憎しみなどはありません。
「奈緒子さん、これから家族の一人ひとりがあなたに伝えたかった大切なことを話していきますね」
私はまず長男のS君に「心の中で今感じている思いを、お母さんに話してあげて」と言いました。
長身の体を折りたたむように、彼は奈緒子さんのそばにひざまずいて、両手で母の手を握って言いました。
「お母さんは、生きているよ......お母さんは、いつまでも、僕たちの心の中で、生き続けていくよ......」
S君は何度も言い続けました。
そして最後に心に刻み込むように言いました。
「お母さん、本当にありがとう」
もはや奈緒子さんには反応する力は残されていないようでした。
ところが、S君が握っていた手を離して立ちあがった瞬間、奈緒子さんの右目からひとすじの涙が流れたのです。
確かに、奈緒子さんには聞こえているのです。
家族のみなが驚き、彼女の顔を見つめていました。
続いて、長女のMさんと次男のT君が語りかけました。
「ママ、私はママの子で本当に幸せだった。ママはいつまでも私のママだから......」
奈緒子さん似の長女のMさんの顔は悲しみをこらえながらも、凛とした美しさにあふれていました。
高校生のT君は、じっと奈緒子さんの顔を見つめていました。
そして両手で母の頬を包み込み、「ママ、ママ、僕だよ......」と言うと、両手を母の頭にまわして抱きかかえ、自分の頬をしっかりと母の頬につけ、しばらくの間じっとしていました。
母のぬくもりを忘れないように、別れを惜しむように。
夫のUさんは、ベッドに両手をついて、うなだれるように、しばらく頭を垂れてじっとしていました。
思いはあるのに言葉が思うように出てこないようでした。
私が「名前を呼んで、"愛している"と言ってあげてください」と言うと、何かを決意したように顔を上げ、大きく息を吸い込んで、「奈緒子、奈緒子......」と何度も名前を呼びました。
名前を呼び続ければ、また元気に目を覚ましてくれるとでも思っているように。
そして、Uさんは思いを込めて言いました。
「愛しているよ」
すると、奈緒子さんは微かに目を開け、確かにささやきました。
「ありがとう......」姉の亜沙子さんの目には大粒の涙があふれていました。
そして、「奈緒子、今までほんとうによくがんばったね......もう何も心配することはないから、安心して」と言うと、奈緒子さんは微かにうなずきました。
「お友達のKさんも来ていますよ」と伝えると、奈緒子さんはわずかに微笑んで、その後に意識がなくなってしまいました。
その日の夕方、家族や友人に見守られながら奈緒子さんは穏やかに息を引きとりました。
ありのままに生きることに少し不器用だった奈緒子さんは、自分らしい人生の最期を迎えることができたと思います。
【最初から読む】「私が死んでも悲しまないで・・・」死にゆく教え子への祈り
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