ハイトーンボイスと変幻自在な曲展開が印象的なスリーピースロックバンド、「凛として時雨」のボーカル&ギターであり、作詞作曲も行うTKのソロ活動名義「TK from 凛として時雨」。唯一無二のサウンドの紡ぎ手であるTKが、「揺れにゆれ」ながら、自らの言葉で彼らの辿った道筋を書き下ろした初のエッセイ。
音楽へ道へと進み始めたあの頃、母親の反対、メンバーとの出会い、無我夢中だったインディーズ時代、そして、メジャーデビュー...TKの音楽にとってなくてはならないものとの巡り合わせとは?
現在、人気アニメの主題歌なども手掛けるTKの独創的な世界観の軌跡を垣間見ることのできるエッセイ『ゆれる(著:TK)』より厳選してお届けします。
『ゆれる』(TK/KADOKAWA)
死ぬか創るか
社長と出会った僕たちは、ライブを行うために新曲を作り、その新曲を流通に乗せてCDショップ等にリリースするという術を得た。ファーストアルバム『#4』のリリースから間もなく、全国ツアーが始まると共に、その少しの手応えは熱を帯びていった。
次作のリリースに向けた打ち合わせの中で、アクシデント的に僕がミックスをしたファーストアルバムに対して、いくつかの改善点を社長から言い渡される。雑多な音が入り乱れるカフェで、僕はノイズキャンセリングイヤホンでもしているのかというくらい、社長の話だけにフォーカスした。
真似事の限界だということは自分も認識していた。ミュージシャンが作品を自分で抱え込んで失敗する事例をたくさん見ていた社長からは、僕がまさにその第一歩を踏み出しているように見えたかもしれない。声が聞こえにくい点を改良することと、基本的にレコーディングやミキシングはプロに任せるという条件を課された。その上で、凛として時雨としての2枚目のCDを、正式に事務所に所属した上でリリースしてもらえることになった。
正式に所属してCDを出してもらえることと、自主制作だったファーストアルバムの制作工程は似て非なるものだ。自主制作というのは、レコーディングにおける費用をすべて自分たちで支払う。ジャケットやCDケース、プレス費用を含めたすべてのものを。契約はもちろん千差万別だが、所属とは、バイトをせずに音源制作に集中し、「CDを制作する費用すべてを事務所が負担する」ということを意味していた。いわゆる、みんなが想像している〝通常の〞バンドの状態だ。
僕たちバンドマンにとっては、バイトをしないで音楽ができるなんて夢のまた夢だ。知らない人も多いかもしれないが、小さなライブハウスでも、「ノルマ」と言って「1500円のチケットを○枚売らなければいけない」というそれぞれの条件を課された状態で、やっとライブに出られる。つまり、お客さんが呼べなければ自腹を切ってライブをするのだ。
僕としては、ライブハウスの維持費や経営がとても大変であることを知っているし、今でもそれは当然だと思っているけど、話すとびっくりする人も多い。ライブハウス側の「出てほしい」が、バンド側の「出たい」を上回ったときに初めてノルマがなくなり、出演オファーという形に変化する。例外を除いて、みんながまずはそこを目指すのだ。
いつかのライブの後。僕の家の前にあった、とてつもない大きな砂利が敷き詰められている駐車場に、機材車として使っていたホンダの車を駐車したときだっただろうか。「いつかノルマとか払わないでライブできるかなあ」と呟いた僕に向けて、中野君が「できるよ」と返した言葉に説得力を感じたのを、妙に覚えている。
事務所と専属契約を結んでの制作は、今までにない刺激の連続だった。レコーディングエンジニアの存在、SSLと呼ばれる雑誌でしか見たことのない大きなコンソールに、整然と並んだ楽器。公民館や練習用のスタジオで録音していた僕らからすると、レコーディングスタジオでの録音は初めての作業の連続だった。
2枚目となるミニアルバムは、自由が丘の住宅街にたたずむスタジオで録音された。大きなスピーカーから鳴る音はとてもソリッドで、大音量でプレイバックされる生々しい音を初めて耳にした僕は、興奮が冷めやらなかった。
その裏で社長は、ミニアルバムに収録予定の「セルジオ越後」という楽曲を、そのままのタイトルで収録したいという僕の思いを元に、名称使用の許諾に奔走していた。結果的には、まだなんの影響力もなかった僕たちに免じて、ローマ字表記で「Sergio Echigo」で快諾いただけた。何度も別のタイトルに変えるように促されたものの、粘ってこの形に落ち着けたのが嬉しかった。
元々L'Arc〜en〜Cielのマネージャーをしていた社長も、きっと人生において、そんな許諾を取らなければいけない日々は想像していなかっただろう。本当にごめんなさい。そしてありがとうございます。
僕の中には時折、揺るがすことが許されないこだわりがある。おそらく誰もが理解できないその小さなこだわりは、何か変化をもたらすとか、そういう論理的な確証があるわけでもない曖昧なものだ。後で思い返しても分からないほどの小さな違いの中に、絶対そうでなくてはいけないものが見えているのは、そのときの自分だけなんだろう。自分でも振り返ると分からないということは、その渦中にいるまわりの人に分かるはずがない。だからこそ自分の感覚を逃さないようにしている。
それは、歌詞の言葉の在り方に似ている。とても時間のかかるその言葉の配列は、一見してどの順番でも成り立つものだ。ときどき、自分自身が昨日の自分の決断の理由を尋ねたくなることすらある。僕にはその感覚がファーストアルバムのときからあった。誰にでも手に取るように分かる理由なら、きっと誰もが共感しやすく、同調してもらえるだろう。ただ、そのありきたりで丸いものは、僕には要らない。
数日にわたるベーシックのリズム録音やダビング、歌の録音をスタジオで終えた。思えば、すべての歌を外のスタジオで録音したのは、このときが最初で最後だったかもしれない。
問題はその後だった。ミックスダウンと呼ばれる音の最終調整が、自分の中でどうもイメージと違っていた。実はレコーディングが進むに連れて、その日に渡されるCD‒Rの音が、スタジオで聴いている音像とはまったく違うという違和感をずっと抱いていた。スタジオでは自らを奮い立たせていた音が、家のコンポではひっそりとなりを潜めてしまう。
これは、ファーストアルバムのときに手伝ってくれていた、エンジニアさんのミックスでも感じていた違和感だったのを思い出した。深夜に忍び込んだスタジオの、あのソニーのラージスピーカーで聴く音とどうも一致しない。これはもしかすると、どことなく聞いたことのある、暗めのBARではかわいく(かっこ良く)見える人が、店を出るとそうでもないみたいなあの現象......?
いや、違う。そうじゃない。家電量販店でばっちりのサイズで購入したテレビが、家に置くと全然違うサイズに感じられるあの現象......? いや、これは確認ミスじゃないか。唯一思い出した感覚は、タワレコでCDを試聴したとき、プレイヤーとヘッドホンの組み合わせなのか、絶妙にディストーションがかかって聞こえた魔性の音像に魅了され、ついつい購入してしまったが、家ではまったく違って聞こえてしまう現象......に似ていた。こうやって書いてみるとBARの話もあながち遠くはない。
ベーシックの録音時に、最終のミックスで良くなるだろうと思っていた部分は、あまり変化を遂げずに完成を迎えた。これはエンジニアさんが悪いわけではなく、自分の中での理想、つまり、かっこいいと思う音像を共有できなかったことが原因だ。僕にはそれをプロの人に伝える術がなかった。時雨において、僕は特にドラムのドライブ感を重要視していたが、それを上手く表現することができなかったのだ。何度か修正をして完成とみなされた音源は、僕が求める時雨の音像とは違ったままだった。
ある日、僕は池袋駅の北口近くにある珈琲専門店にいた。タバコの匂いが漂っていた店内で、まだブラックコーヒーを飲めなかった僕は、きっと牛乳の入った何かのドリンクを頼んでいただろう。社長は完成形に納得していなかった僕にひとつの助け舟を出すために、その打ち合わせを組んでくれた。
社長からは、少しの説教と共に、「もし、このままの音で出すなら死ぬ、くらいの覚悟があるなら、自分でやり直してもいい」という言葉を投げかけられた。僕が「やり直したい」と直訴したものに対しての、厳しくも優しい提案だった。いずれにせよ、僕は即座に自分でやり直す決断をした。
家のコンポの小さな音で聴いたときのあの絶望感を、他の誰にも味わわせたくなかった。素人の自分がミックスすることで、音のバランスがどうなったとしても、自分の好きな音で楽曲をドライブさせることを選んだ。僕は2曲だけ自分でミックスすることをエンジニアさんに丁重に詫び、納期の迫っている中で作業を急いだ。
出来上がった音を、マスタリングエンジニアと呼ばれるプロの方が最終調整して、CDの流れを作るマスタリングという作業を無事に迎えた。曲間など細かい調整を経て、遂に2枚目の作品は完成を迎えた。
僕が2曲だけミックスをしたことはマスタリングエンジニアさんには伝えていなかったが、その2曲だけ「バランスが悪い」とさらりと言われたのを覚えている。「プロはやっぱり分かるんだな」と思ったのと同時に、僕にしか見えないものが確かにあることを心の中で噛み締めた。そうでも思わないとやってられなかった。
あのときの僕が求めたスピード感とひずみは、バランスを保つためにあるわけじゃない。鋭く鋭利なものだけで表現できるものが多くの人を突き刺せると、僕は心から信じていた。
死んでも譲れないもの――それが、僕たちのセカンドアルバム『Feeling your UFO』には詰まっている。2006年に襲来した、誰にも確認できない僕の飛行物体は、あまりにも確かなものだった。