絶対の善悪はあるのか/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「知らないことを知る」。絶対の善悪はあるのか、またあったとしても、間違った判断をしてしまうことが多い中で、年長者はどのように振る舞い、歳を重ねていくべきなのか――。ぜひご一読ください。

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絶対の善悪はある

前回は、状況から離れてあることが絶対的に善、あるいは悪であるとはいえず、善悪の判断は難しいということを見た。

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例えば、学校に行っていない子どもに、何が何でも学校に行くべきだと手放しでいうことはできない。親が子どもの意思を尊重し、子ども自身が学校に行く決心をする日を待とうと考えていても、祖父母がそれを許さず、そのため家族がギクシャクすることもある。親も祖父母に反発しながらも学校に行かせるべきだといわれたら、内心では学校に行ってほしいと思っているため気持ちが揺らぐことがあるかもしれない。

問題は、学校に行っていない子どもが一日も早く戻らないといけないと大人たちが考えているその学校でいじめがあったり、教師が生徒を抑圧しているというようなことがあれば、そんな学校に行くことは勧められないことである。個々のケースで、どうすることがいいのかを検証しなければならないのである。

注意しなければならないのは、このように善悪の判断は難しいが、それは絶対の善悪がないという意味ではないことである。

例えば、「美しい」という言葉の意味を知っているということは、目の前に広がる光景を見て、また咲き誇る花を見て、それが美しいと判別できることである。

しかし、この判別は万人にとって、あるいは、あらゆる場合に一定不変ではない。私が美しいと判別したものを他の人はそうは判別しなかったり、かつては美しいと判別しなかったものを、今は美しいと判別することがある。ベートーベンやブラームスの音楽は美しいという人にとって、現代音楽は聞いても心地よくなく、少しも美しいとは思えなかったり、若い頃は美しいと思わなかった音楽が今では美しいと思えたりすることもある。絵画についても同じことがある。

美の判別を例にさらにいうと、あるものを見て「きれい」という言葉を発するのは、過去に見たものと比較してこれがそのどれよりも美しいと判別したからではない。そうであれば初めて見る景色に心を動かされたり、初めて会った人に目を奪われ、さらには心を奪われ、恋に落ちるということの説明がつかないからである。

何かを見てそれを美しいと判別し「きれい」といえるためには、この判別の中に、先験的としかいえない何かが働いていなければならない。

何か美しいものを見た時に「きれい」という時、その「きれい」といわせる究極の根拠がある。プラトンはこれを「イデア」だといっている。理想や規範、基準としてこのイデアを知っているので、「きれい」と判別できるのである。

さらには、何かを見ることは「きれい」という発声への合図を受け取ることだけでなく、それへの対処、行動への合図を受け取ることでもある。

赤信号を見ればブレーキを踏むとか、ボールが飛んできたのを見れば身をかわすというような緊迫した行動への合図や、子どもや孫が学校に行かなかったり働かなかったりして家にいるのを見た時、イライラしたり、早く学校、会社に行きなさいと叱ったりするという行動への合図を受け取るのである。

実際、どんな対処、行動をするかは、それが善か悪か(ためになるか、ならないか)という価値判断による。この善か悪かという判断は難しいが、どんな判断も正しいわけではない。判断は難しいが絶対的な善悪はあるのである。

年長者ができること

日常生活の中で間違った判断をすることがあるとすれば、それはこのイデアの認識が十分ではないために、この世にあるものが完全なものだと思ってしまうからである。イデアは経験の中にそのままの形では現れない。しかし、経験を重ね深めることで少しでも完全なイデアの認識に近づくことはできるので、そうする努力はしなければならない。

若い人と仕事をしていると、彼〔女〕の方が知性も感性も優れていると思うことがあるが、他面、知識があるだけでは心もとないと思うこともある。検査データの解読に長けている若い有能な医師は必要だが、患者の立場からいえば、聴診器を胸や背中にあて、指で脈を取る高齢の医師に安心感を覚えることもある。

人工知能(AI)が医師に代わって診断をし、余命まで宣告する時代がくるといわれているが、そんな時代がきても、人間の医師(という言葉は今はないだろうが)の、しかもただ医学の知識がある若い医師よりは経験もあり、しかもそれが医療の経験というよりも人生経験のある年配医師の触れる手や言葉がありがたいのはいつの日も変わらないだろう。

このようなことを思う時、歳を重ねると記憶力が減退することを恐れる人は多いが、イデアの認識に近づき必要な経験を深めるためには歳を重ねなければならない。

何が美しいかそうでないかという判別も難しいが、何が善であり悪であるかという判断はさらに難しい。このような判断が的確にできることが賢いということであるが、この賢さは知識の量とはあまり関係がない。知識よりも経験の方がこの賢さを身につけるためには必要といっていいくらいである。

問題は、若い人と接する時、ともすれば自分の方が年上で、人生経験も豊富だから、何でも知っていると思っている人がいることである。そのような人がたとえ善意であっても、若い人に説教を垂れるような話し方をすれば、反発されるのは必至である。

そのような話し方になるのは、自分は正しいと思うからだが、そう思った途端に権力争いになる。

知恵を若い人に伝えるのが年長者の役割だと私は考えているが、そのためには謙虚でなければならない。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年8月号に掲載の情報です。

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