「同じ状況なら、同じことをするかも」自分と人を分けない考え方/岸見一郎「老後に備えない生き方」

「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載、哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「自分と他者を分別しない」です。

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四門出遊(しもんしゅつゆう)

仏教系の高校に通っていたので、毎週、宗教の時間があった。
もっぱら釈尊(しゃくそん)の生涯とその教えについて詳しく学んだ。三年をかけて学んだことは今もよく覚えているのだが、就中(なかんずく)「四門出遊」という逸話が印象に残っている。

釈尊が出家する前のこと。釈迦族の王子として何の不自由もなく育った釈尊が物思いに沈むようになった。父親がそんな彼を城の外に出した。東西南北の四つの門から外に出た釈尊は、それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に会った。釈尊は人生の苦しみを目のあたりにし、出家を決意、出家したという話である。

誰もが老い、病気になる。そして、死ぬ。誰も老い、病気、死を避けることはできない。若く元気な人であれば、自分が老いるということを想像することすらできないだろうし、歳を重ねた人は自分の老いを意識し、時に病気で伏せることがあったとしても、老いたくはない、いつまでも若くありたい、病気をしたくない、死にたくないと思う。

このように思う時、自分と他者を切り離し、分別しているのである。

釈尊は、外へと出て、老人、病人、死者に会った時、若く、元気だった。しかし、釈尊は自分は老人を見て、自分は若いからありがたいとは思わなかった。自分もまた老いるべき者、病むべき者、死すべき者だと考えた。自分と他者とを分別せず、自分の内に包み込んだのだ。

 
みんなの責任

仏教学者の鈴木大拙(だいせつ)は、ある日、駅で通りすがりに、身体の不自由な青年を見た時にこういった。

「みんなの責任なんだ、じっとしておれん、仕事だ、仕事だ」

その瞳は深く沈んでいた。大拙にとって、自分と他者は切り離すことができなかったのである(上田閑照・岡村美穂子編『鈴木大拙とは誰か』)。

駅で見かけた青年の障害が自分に関係があるとは普通は思わないだろう。気の毒だと思う人はいる。そのように思う人は、自分には障害がなくてよかったと思っているのであり、自分と他者を分別しているのである。

オーストリアの精神科医であるアドラーは次のようにいったと伝えられている。

「中国のどこかで子どもが殴られている時は我々が責められるべきだ。この世界で我々と関係がないことは何一つもない」(Bottome, Phyllis. Alfred Adler

今も世界のいたるところで子どもたちが虐待を受けている。そのことを気の毒なことだと思うが、自分に責任があるとは思わない。自分自身は子どもに虐待をしていないし、孫とも穏やかに接している。こう思う人は、自分と他者を分別している。

釈尊であれば、私もまた同じ立場に置かれたら子どもを殴っているかもしれないと考えただろう。子どもを殴ってしまう親の苦悩にも考え及んだだろう。「じっとしておれん」。そう思った釈尊は、出家した。

 
自分も同じことをしうる存在

もうかれこれ十年以上前に私は心筋梗塞で倒れ、冠動脈バイパスの手術を受け、その後幸い経過は順調だが、二ヶ月ごとに通院して検査を受けている。ある日、待合室に大きな声が響いた。何事かと思って見たら、一人の女性が親と思しき高齢の女性を怒鳴りつけていたのだ。車椅子に乗っていた親は何の抵抗もしないで、子どもの暴言に耐えていた。

私は、この女性がそれほど遠くはない将来、自分もまた親のように介護が必要となるかもしれないというようなことを考えたことはないのだろうか、もしも自分も親と同じように誰かに介護されることが必要になる時がくることを知っていれば、親に対してつらく当たることはないだろうにと思った。

問題は二つある。一つは、この女性が、結局この時に自分と親を分別していることである。自分自身は親のように老いてはいないが、親は老い、介護が必要だ。そう考えて、自分と親を切り離したのである。知らない人であれば気の毒だと思っても、自分と他者を分別し、その場から立ち去ることができるが、親はそういうわけにはいかない。イライラし、怒りが募る。

もう一つの問題は、私が二人を見て、私自分は親に対してこんな酷い言葉を投げかけたりはしないと思ったことである。そう思った時、私は自分と人を分別したのである。その際、私はこの人とは違うと考えただけではなく、自分は正しいと思い、親に激しい言葉を投げかける女性は正しくない、その人のしていることは間違っていると思ったが、自分もまた同じ状況に置かれた時に、同じことをするかもしれないとは考えなかった。

 
他者に共感する

自分もまた親と同じように老いていき、病気になり、ついには死ぬのだ。自分が今介護をしているこの親は自分なのだと思いたい。

自分を介護してくれているこの子どもはかつての私なのだと思いたい。

親の介護をしているのに、そのことを他の家族や親戚らが理解してくれないという人がいれば、そのような人も自分と他者を分別しているのである。あらゆる争いは自分と他者の分別に起因する。

相手の立場に身を置いて考えることをアドラーは「共感」という。相手と自分を「同一視」することが大切だともいう。同じ立場にあれば自分も同じようなことをいうかもしれない。そう思って他者を分別するのではなく、他者を内包すれば争いはなくなるだろう。

 

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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年6月号に掲載の情報です。

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