京都の町家からロンドン生活を経てたどり着いた、琵琶湖のほとりの暮らし。フォトエッセイ『66歳、家も人生もリノベーション 自分に自由に水辺の生活』では古い小屋を夫婦でセルフリノベーションし、豊かな自然と好きなものに囲まれた生活がいきいきと綴られています。
この記事は月刊誌『毎日が発見』2023年12月号に掲載の情報です。
人工内耳を入れて、音を取り戻したら、
本当の静けさに気が付きました
――タイトルにもありますが「人生もリノベーション中」という言葉が印象的です。
いまってどんどんモノを減らして、小さく暮らしましょうという風潮じゃないですか。
私はいま66歳で母が97歳。
同じぐらい生きるとしてもあと30年以上あるのに、ダウンサイジングしていくばかりではあまりにもつまらない。
もちろん整理整頓は必要だし、しがらみやお付き合いは必要最小限にちっちゃくしたほうがいいけど、サイズを小さくするだけでは楽しくないですよね。
そういう意味で、いまは自分の中でこれからどう生きていきたいのかを考える時期だと思うんです。
その上で余生というのではなくて、生まれ変わったような新しい生活...人生もリノベーションできたらと思っているんです。
――いまの生活を「秋」になぞらえて、終活ならぬ秋活というのもすてきだなと。
晩秋になると紅葉しますよね。その葉が1枚ずつ風に吹かれて落ちていく様も美しいし、色彩も美しい。
秋にはそういうイメージがあります。
季節の場合は秋が過ぎて冬になっても、次には春が来て暖かくなる。
次があるという冬なんだけど、人生の冬というのは、次に来る春はないんですよね。
冬を長く過ごすのはいやだから、美しい晩秋を少しでも長く楽しみたい。
その時間をどう延ばしていくか。
そして運よけばそのまま老いて、ある日静かに秋のままで逝けたらと思います。
人生の冬に次に来る春はないと言いましたが、秋に戻ることはある。
母がそうなのですが、車椅子生活でも懸命にリハビリして、トイレに自分で行けるようになり、洗濯もホームの洗濯機で自分でできるようになりました。
そういう姿を見ていると、冬から晩秋に戻ったのだなと感じます。
私も一度は音を失いましたが、人工内耳のインプラント手術を受けて音が戻ってきました。
耳に関しては冬になっていたけれど、いまちょうど秋かな、頑張れば夏ぐらいまで戻ることができるかもと期待しているんです。
何かを失うと何かが得られる
――進行性の感音難聴の進行で、作詞家からエッセイストへ転身されたのですよね。
突発性より、いつか失聴する進行性のほうが怖いと言われたりもするのですが、私にはそういう恐怖はありませんでした。
いつかみんな死ぬのだし、みたいな感じでしょうか。
失うということはそこのスペースができるということ。
他のことができます。
他のものを持てます。
リノベーションできます。
聴こえないときは、それを目で補っていました。
視力はよくないんですが、色の移ろいとか、動くものを捉える力とか、脳が感じ取る力は聴者よりあると思います。
だから特に不便は感じていませんでした。
それでも人工内耳の手術に踏み切ったのは飼い猫のSOSの声に気付いてあげられなかったから。
聴こえないときも一人で旅行に行っていたし、ホームの発車ベルも、救急車のサイレンや非常ベルが聴こえなくても不安はありませんでした。
でもいまは人工内耳の集音装置を外すと不安になります。
そして猫や犬の声、鳥の声、波の音、たくさんの音が聴こえるようになり、世界がカラフルになりました。
ただ、そういう音が聴こえることと、言葉や音楽が聴こえるということとは次元が違うんです。
メガネをかけたらはっきり見えるようになるのとは違って、人工内耳を入れたら元の聴力に戻るわけではありません。
実際、最初は人工的な金属音しか聴こえません。
私の場合はグロッケン(鉄琴)がしゃべっているように聴こえました。
それがリハビリを続けていくうちに脳が記憶の音で上書きをしていって、だんだんと人間の声として聴こえるようになっていく。
音楽はピッチ(音程)の聴き取りが必要ですが、人工内耳にはそこまでの性能はありません。
だから音楽はいまも聴くことができません。
じつは人間の耳ってものすごく優秀なんです。
「楽しく過ごすために、そのときどきで何ができるかいつも考えています。介護が必要になったときに私の体力がないと最後まで面倒を見られないから、犬を飼うのはまさに、いまだったんです」人工内耳のリハビリ中という麻生さんですが、リモート取材で最近迎え入れた愛犬との生活などを、とてもスムーズにお話ししてくださいました。