介護関連の講演も行っている女優の秋川リサさんに、介護に対する思いなどを伺いました。
介護を振り返ってやり残したことはない
――母親の介護の経験を綴った書籍が話題となり、介護関連の講演も行っている女優の秋川リサさん。母親を看取った後、2人の子どもは独立し、保護犬のモモとの暮らしを楽しむ秋川さんに、時間がたったからこその、介護に対して思うことなどを伺いました。
母が亡くなってもう6年ですね。
何だか忘れっぽくなったと気付いてから、あっという間に認知症が進んで。
徘徊も頻繁にあり、警察にも探してもらって...。
足腰が強いから10時間以上歩き続けることもあったんです。
粗相してしまうことも多かったのですが、プライドが高かったのでおむつにするのを嫌がったり、おむつにしてからも粗相を隠そうとしたり。
娘がとても上手に母を説得してくれて、手際よくおむつも替えてくれましたし、本当に助かりました。
ただ、私も娘も働きながら、昼夜関係なくひとり歩きする母を介護するのは本当に大変でした。
――施設を利用することは考えなかったのですか。
もちろんすぐに考えましたが、母の弟(叔父)にかわいそうだと言われたこともあって、踏みきれませんでした。
それでも、これ以上は母にも良くないと思い施設を探し始めたのですが、何とお金がなかったんです。
私は10代で働き始めてからお金の管理は母に任せていて、ぜいたくしなければ私の老後資金もあるだろうと思っていたのに、まったくなかった!
母はそのときすでに認知症を発症していたので、何に使ったのか聞くこともできないし。
それでもいいご縁があって、何とか納得できる施設に入れることができました。
――いまでも、施設を利用することに抵抗を示す方がいらっしゃいますね。
そういう人に限って何もしないくせにね(笑)。
でも家で見るのは限界がありますよ。
娘も"どうせやらなければいけないことは、笑ってやろう"という前向きな子なので、どんなことも笑いに変えながらやってくれましたが、母を施設に入れた後、「あと半年、施設に入れるのが遅かったら、家出したかもしれない」と告白されました。
あんな風に明るくいてくれたのも、そうしないと、結局私が壊れてしまうと思ったんでしょうね。
それだけ娘には助けられていたのに、もし娘が家出していたら、私は娘に裏切られたと感じて責めていたかもしれません。
それだけ追い詰められていたんですよね。
そうやって介護は親子関係も家族関係も壊してしまうから、抱え込まない方がいいと思うんです。
――お母様は施設に入るのに抵抗はなかったのですか?
最初のうちはまだ自分で認知症になったという意識もなかったので、デイサービスでさえ嫌がりました。
もともと母はとてもおしゃれでプライドも高い人だったので、地元の老人会にさえ「何で私が爺さん婆さんと付き合わなきゃいけないの」と参加もしていませんでした。
自分だって婆さんのくせにね(笑)。
だからデイサービスに連れていっても「年寄りの幼稚園みたいで気持ち悪い」と。
でも、娘に「おばあちゃんが英語を教えてあげたら喜ぶよ」と持ち上げられ、ケアマネージャーさんからも「週に3日ぐらいでも来てくれたら皆さん喜びますよ」とおだてられて「それなら、たまにならお手伝いしましょうか」と。
自尊心をくすぐって何とか承諾してもらいました。
老人介護施設に入る頃には認知症もかなり進んでいましたが、それでも母は他の入居者の方に「いろいろ教えますので、よろしく」とあいさつしていましたよ。
――かっこいいお母様ですね。もともと関係性は良かったのですか?
全然ですよ。
母はシングルマザーで、友人とスナックを開いて家計を支えてくれましたが、実質的に私を育ててくれたのは祖母です。
母は定期的に彼氏を家に住まわせていましたが、私が思春期の頃に、母の彼氏と衝突して追い出してしまってからは、私が仕事を始めて稼げるようになるまで、ほとんど口もきいてくれないほどでした。
スナックがつぶれてお金がなくなり、私がモデルをして稼ぐようになってからは、私のお金を管理することが生きがいのようになって、途端に子離れできない親になっていきました。
私も離婚をしてシングルマザーになったので、2人の子どもを育てるときにはとても助かったんですが、孫育てが一段落したら「彼と住む」と出ていってしまったのは寝耳に水でした。
母は男性がいないとダメな人だったけど、当時、母は78歳ですよ。
目が点ですよ。
そうやってそれまでにも私たちの知らないところで彼氏を作って、私のお金も貢いじゃったんでしょうね。
それでも母の幸せを願っていましたが、同棲3年半で出戻ってきました。
相手の方が嫉妬深かったといったこともあったようですが、私たちと一緒に暮らす方が楽しいのかと思ったら! ですよ。
母の認知症が進んでから荷物を整理していたら、二十数年分の日記が出てきたんです。
見るつもりはなかったのですが、母が管理していたお金を探していたこともあり、見てしまったんです。
そうしたら「娘なんて生まなければよかった」とか「生活の面倒を見てるからって偉そうに」とか。
私への罵詈雑言だらけでした。
あまりに思いもよらないことだらけだったので、頭が真っ白になってしまいました。
母は以前うつ病になったのですが、途中で治療をやめてしまっていて、その頃から日記の内容は特に、否定的で攻撃的なものが多くなっていました。
病気のせいだったのか元の性格なのか分かりませんが、とにかく二十数年の間、母の心の在り方は、私の想像を絶するところにあったのは確かですね。
――それでも、介護をやりきったという印象ですが、やり残したと感じることは?
ないない! 一つだけあるとしたら、もっと早く男性に貢いでいることに気が付きたかった(笑)。
老後について早いうちに話し合っておくべき
――介護に対していまだから思うことはありますか?
老後のことを元気なうちに家族で話し合っておくべきだなと思います。
私、母が亡くなった後、ご縁があって介護施設で働かせていただいたことがあるんです。
そのときに子どもの世話にはならないと自宅を売って入所した方がいたんですけど、息子さんとしては二世帯住宅にして一緒に暮らすつもりだったと。
それで親子断絶のようになってしまったのですが、事前に話し合っていればそんなことにはならなかったんですよね。
介護のことって子どもからは言いづらいものだし、親の方から切り出すべきだと思います。
そういう私もそのうち施設に入ろうとは思うものの、孫が手のかからない年ごろになったら一緒に住んでみたいなと思ったりもします。
でも娘には「私に認知症の症状が現れたら、さっさと施設に入れちゃってね」と言うと「うんうん、もちろんよ!」って言われてます( 笑)。
「一緒に暮らすモモは保護犬です。モモは野犬の子どもで、四国まで迎えに行って受け入れました。最初は心を開かなかったモモも、いまでは片時も私のそばを離れないの」。取材の撮影中もずっと一緒に。
――今後のために心がけていることはありますか?
コロナ禍で外出の機会が減って、犬のモモちゃんも散歩が好きでないということもあり、この3年ほとんど家に隔離されたような生活をしていたせいで足腰も弱くなりました。
もうハイヒールで歩きたいとも思わなくなっちゃったけど、一方でちゃんとハイヒールを履いて歩ける体でいたいとも思います。
でも、涼しくなったら運動しようと思ってたらもう寒くなっちゃって、春になったらとか思い始めてるんだけど( 笑)。
取材・文/鷲頭あや子 撮影/吉原朱美