53歳で余命3日の宣告。「死への考え方がガラッと変わりました」安奈 淳さんインタビュー

1975年に宝塚・花組の男役トップスターとなり、『ベルサイユのばら』のオスカル役が大
ブームになった女優・歌手の安奈 淳さんは、53歳の時の「壮絶な闘病体験」で、「死」に対する考え方が一変した、といいます。「余命3日、今夜が山です」と何度か言われたという闘病のこと、そして現在の日々の体調への付き合い方について、お聞きしました。

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「余命3日」の壮絶な闘病体験

――安奈淳さんは1975年に宝塚・花組の男役トップスターになられて、『ベルサイユのばら』のオスカル役が大ブームになりました。当時を振り返っていかがですか?

『ベルサイユのばら』は宝塚が広く知られるきっかけになった作品なんです。でも、私自身はオスカルという役は、どちらかというとイヤでしたね。出番が多いから(笑)。若い頃は、本当に責任感というものがなくて。ある時、地方公演で客席にお客さんがパラパラとしかいない日があったんです。それでもちゃんとやらなければいけないのだけど、地方を回っていて疲れもあったんでしょうね。「ここは、はしょろうやないか」と(笑)。最後の断末魔の場面、「行こー!」と言ってダンスを踊って、最後に砲弾に撃たれるのですが、そこのダンスがキツイんです。だから、「行こー!」の後、すぐに撃ってくださいと舞台効果さんにお願いして。上演時間が大幅に短くなって、怒られました。

――スゴイ話ですね。

そんな話、いくらでもありますよ(笑)。宝塚では必ず代役が付くのですが、私、香盤表(進行表)を見ていないのよね。ある時、ステージを見ていて、どうも人が足らんなと思ったら、その役の方がお休みしていて、代役が私だったんです。それも怒られましたね。ぼーっとしているんですよね(笑)。いまもこうしてお仕事しているのが、自分では考えられないぐらい。病気もしましたしね。

――53歳の時に「余命3日」と宣告されたそうですね。

そうなんです。舞台で歌っていると、声が途切れるんですよ。おかしいなと思っていたら、その時から肺に水が溜まっていたのね。病院に運ばれた時は65kgあったのですが、10日間水を抜いたら、35kgになって。体中に水が溜まって、心臓まで水が達して、あと1時間遅かったら、窒息死していたと言われました。

――壮絶ですね。

原因が分からなかったのですが、調べていくうちに膠原病ではないかと。当時は治療法が確立していなかったので、先生方もあらゆる方法を試そうと毎日が検査。たくさん管につながれて、生ける屍(しかばね)のようでした。骨と皮だけになって、『余命3日、今夜が山です』ということが何度かあって。それでもいま、こうして生きているんだからね。

――すごいです......。

いまではありえない薬の合わせ方をしていたので、副作用で鬱状態になって、1+1も数えられないし、幻聴が激しくて字も読めないし。思考回路がぐちゃぐちゃになって、そういう状態が10日ぐらい続きました。そんな壮絶な思いは二度としたくないから、いまはものすごく気を付けています。あまりにもつらかったから、死に対する考え方もがらっと変わりました。全然こわくなくなったし、闘病の末に亡くなった人は、やっと解放されたんだ、よかったと思うようにもなりました。だから、生きている間は十分に生きなければと思っています。

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「宝塚に入って10年ぐらいたった頃、職員室に呼ばれて、パリ公演に行くか聞かれたんです。『海外なんて面倒くさいから、このまま残ります』って言ったら、次に出ることになったのが『ベルサイユのばら』だったんです(笑)」

再びステージで歌うようになるまで

――闘病中に一度は歌えなくなられたそうですが、ボイス・トレーニングを再開して、再び歌うようになられて。

少しずつ体調がよくなってきた時に、歌をやめたら、どう生きていけばいいか分からないなと思ったんです。歌もピアノを弾くことも好きですから。ボイス・トレーニングにも再び通って、一からやり直しました。声帯は筋肉ですから、何歳になっても鍛えられるんですよ。そこは努力しました。

――その後、70歳になられて、昨年、ヤマハホールでコンサートを開催されましたね。

自分から提案して仕事をすることは、これまであまりなかったのですが、もう70やわぁ~と思った時に、一区切りで憧れのヤマハホールでやれたらなと思ったんです。あんなにたくさんの方が来てくださると思わなかったので、幕が開いた時は、感無量でした。

――歌に対する姿勢は、以前と変わりましたか。

変わりましたね。病気したこともありますし、考えてみたら、よくひとりでがんばってきたなと思います。歌う時は一曲をおろそかにしたらバチが当たると思うから、全身全霊を注ぎ込みます。だから、すごく疲れるんですよ(笑)。

――安奈さんは、宝塚の研究生時代から人気者で、ご自身の希望というより、周りから求められてステージに上がった人という感じがします。

宝塚に入ったのも父のたっての願いで、私は本当は絵を描きたかったのね。舞台も、もともとは衣装や美術など裏方への興味の方が強かったです。ただ、ステージに立つと、不思議なのですが、別人になるんです。かーっと体中の細胞がざわざわして、歌っている時は自分じゃないみたいで。きっと、すごく血圧が上がっていると思います(笑)。普段はいまも変わらず、ぼーっとしているんですけどね。メカにも弱いし。ずいぶん前に1万5千円の冷蔵庫を買って、ずっと使っていたのですが、開けると暗いのね。中がよく見えなかったんです。でも、倍ぐらいの大きさのに買い替えたら、明るいの。全部、見えるんです。感動して、しばらく眺めちゃいました。

――それいつの話ですか(笑)。

わりと最近(笑)。スマホも最初よく分からなくて。電車に乗りながら、なぜ皆さん、画面を掃除しているのか理解できなかった(笑)。もともとがアナログですからね。本もやっぱり紙をめくりながら読むのが好きなんですよね。

念願だったエッセイ本を出版

――本といえば、『安奈淳スタイル』を出されましたね。

そうなんです。これまでのことをいろいろまとめて。巻末に三國連太郎さんとの対談が載っているのですが、当時、私は30歳。生意気なことを言っているんですよ(笑)。私、三國さんのファンなのですが、私のディナーショーをご覧になった後の対談で、三國さんが「あなたは性格キツイでしょう」とおっしゃっていて。それに私がちゃんと「ハイ」と返事しているの(笑)。

――いろいろなエピソードや安奈さんの描かれた絵も収められていますが、ご自身のおすすめのページはありますか。

別にないです(笑)。トータルで一冊だから。いいなと思うのは1時間ぐらいで読めるの。新幹線で東京から大阪に着く頃には、きっと読み終わると思います(笑)。

――本のあとがきにも、ご自身の健康のことを書かれていましたが、日々の体調とはどう付き合われていますか?

私は太れないので、きちんと食べることが目標ですね。腎臓もよくないので、塩辛いものがダメだから、食事は自分で作るようにして。心臓弁膜症もあるので、激しい運動はしないようにしています。でも、あまり心配はしていないの。時が来たら、手術していただこうと思っていますし、手術の難しい病気ではないから。壮絶な経験もしたけれど、大変なことがあっても、見方を変えれば福となるのよね。例えば、「これはきっと何かいいことが起こる序章なんだ」とか。私はいつもそう考えています。なんか偉そうに言っていますけど(笑)。幸不幸は、考え方次第だから。

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取材・文/多賀谷浩子 撮影/吉原朱美

 

女優・歌手
安奈 淳(あんな・じゅん)さん
1947年、大阪府生まれ。65年に宝塚歌劇団に入団し、70年代に『ベルサイユのばら』が大ブームに。2000年に膠原病に倒れるも、奇跡のカムバックを果たす。以降、歌手として活躍。芸能生活55周年のアルバム『安奈淳 私の好きな歌 Mes cheres chansons』が発売中。

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『安奈淳スタイル』

(安奈 淳/ライスプレス

2,800円+税
発行:A PEOPLE
幼少期から宝塚時代、現在に至るまでの秘蔵エピソードをはじめ、自身の描き下ろした絵画、出演舞台の全記録、若き日の三國連太郎との対談など、半世紀以上にわたる芸能生活のエッセンスを凝縮した、安奈淳の素顔に迫る一冊。

この記事は『毎日が発見』2020年12月号に掲載の情報です。

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