認知症になっても「私」が「私」でなくなるわけではない/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「それでも変わらない私」。
事故や認知症で姿や形が変わってしまった場合、「私」が私ではなくなるのでしょうか。
岸見さんはどのように考察されたのでしょう――。

前回の記事:たとえ間違ったとしても...自分の人生を決めているのは自分である/岸見一郎「老後に備えない生き方」

認知症になっても「私」が「私」でなくなるわけではない/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_61480241_S.jpg

変わらない「私」

ライフスタイルの選択であれ、時々に下す判断であれ、「私」がするのである。

過去のある時に判断を下した「私」と、その時とは違った判断を下した今の「私」は同じでなければならない。

あの時の判断と今の判断をつなげるのが「私」である。

昨日約束したかもしれないけれど、約束したのは昨日の私であって今日の私ではないなどとはいえない。

たしかに自分がいったことでも忘れることはありうるが、忘れただけであって、その時の自分と今の自分が別人になるわけではない。

「私」は、まず、決定する主体としてどんな時も変わらない。

「私」が同じだから、前日の判断が間違っていたことが理解できるのである。

次に、ライフスタイルを決める「私」も変わらない。

それまでとは違うライフスタイルを選択すれば、時に他の人には人が変わったように見えることがあるだろう。

しかし、違うスタイルを選択することを決めたのは「私」であって、そのことによって行動が変わったとしても、「私」が「私」でなくなるわけではない。

「私」が、私ではなくなる?

以上のところで、「私」と書いてきたのは、前には「人格」と呼んだ。

小さい時の自分と今の自分では姿や形は変わったとしても、あの頃の自分と今の自分がまったく別人でなく、同じ自分だと思えるとすれば、人格の連続性がある。

それでは、連続性がないように見える時はどう考えればいいか。

事故や災害などで容姿が変わるほどの大怪我をしたからといって、別人になるわけではない。

外見が変わったからといって自分が変わったのではないことは誰よりも知っているが、それでも、最初は自分の変化をすぐに受け入れられないかもしれない。

まわりの人の態度が変わるということもある。

しかし、それも多くの場合一時的であり、最初はすぐには変化に慣れなかっただけで、姿形が変わっても前と同じ自分が知っていた人であることがわかれば、すぐに前と同じように接するようになるだろう。

何十年ぶりで再会する人の場合にも同じことが起こる。

名前を聞いただけでは、目の前にいる人と自分の記憶の中にあるその人のイメージとがあまりに違うのでとまどってしまう。

しかし、少し言葉を交わすと、たちまち以前と変わらない人であることがわかる。

中学生の時、私は交通事故にあったことがある。

おそらく、それほど長い時間ではなかったのだが、教急車で病院に運ばれ治療を受けている時に看護師さんの手を払い除けようとしたところで意識が戻った。

実際には、意識を失っていたわけではなく身体を動かしていたのだが、その間のことをまったく覚えていないのだ。

しかし、こんなことがあっても、事故の前後で、私の人格が変わったわけではない。

病気や事故のことを持ち出すまでもなく、子どもの頃のことを考えればいい。

生まれた時のことや、生まれてから最初数年の人生のことを覚えている人はいないだろう。

他の人は知っているが、自分は知らない人生がある。

自分ではわからないので、他の人が自分について語っていることから、自分がどんな子どもだったかを推測できるだけである。

自分について今では考えられないようなことをいわれたら、本当にそんなことがあったのかと思うが、自分が知らないことを覚えている他の人が、その時も今も同じ人なので納得しないわけにはいかない。

また、夜寝て翌朝目覚めた時に、もはや私は昨日の私ではないと思う人はいないだろう。

意識が断絶しても、人格の連続性が失われることにはならない。

たとえ、泥酔したまま寝入って前夜のことをまったく覚えていなかったとしても、朝、別人になっているわけではない。

記憶の有無は人格の連続性とは関係がないからだ。

自分が認知症であることを公表した長谷川和夫医師は、出かけた後に鍵をかけたか気になって、何度も家に戻って確認することがあるといっている。

私の父も今しがたのことを忘れるようになった。

これが認知症の症状の一つだが、記憶を失っても「私」が「私」でなくなるわけではなく、人格の連続性が途切れるわけではない。

自分が認知症になってどう感じたかという間いに長谷川医師は次のように答えている。

「認知症になった自分とそうじゃなかった自分には、連続性があるという感じがするんだ」

祖父を非常に尊敬している人がいた。

私は常からその人から祖父のことを聞いていた。

ある日新聞を広げた時、大手の銀行頭取だった祖父が逮捕されたという記事が、警察へ護送される写真と共に一面トップで出ていたのを見て驚いた。

このようなことが起こった時、そんな人だと思わなかったというようなことをいって、離れてしまう人はいるだろう。

しかし、そのようなことをいう人はもともとその人を本当に尊敬し、信頼していなかったのだ。

人を属性でしか見ない人がいる。

ここでいう属性とは、学歴や社会的地位などのことである。

以前は尊敬し信頼していた人が社会的な制裁を受け一線から退くことを余儀なくされた時、属性によってのみ判断していた人は、たちまち離れていってしまうだろう。

しかし、何があっても離れていかない人は必ずいる。

たとえ、他のすべての人が自分のもとを去るようなことがあっても、自分の属性が変わっても、自分は自分であり、他者の評価は自分の価値を決めない。

自分を信じられる人であれば何も恐れることはない。

「私」は失われない

ゲーテが、こういっている(『西東詩集』)。

「自分自身を失わなければ

 どんな生活も苦しくない

 自分が自分であれば
 何を失っても惜しくない」

これから自分がしたことをたちまち忘れるようになっても、過去の人生を思い出せなくなっ
ても、私が私でなくなるということはない。

私は何一つ失うことにはならないのだ。

若い時であれば新しい知識を身につけることができるだろう。

年を重ねるとそれが難しくなり、今しがたのことも忘れてしまうことになっても、「私」は変わることなく「私」であり続ける。
プラトンは、この「私」の連続性を魂が身体から離れた後にも認める。

今日であれば死を、魂が身体から離れるというふうに捉える人は少ないだろうが、ここまで見てきたように何があっても、つまり、外見が変わったり、記憶を失ったりしても「私」が「私」であり続けるのであれば、たとえ身体が機能を停止した時も同じ「私」であり続けるのだ。

ぜひ、じっくりと読んでみてください。岸見一郎さん「老後に備えない生き方」その他の記事はこちら

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2020年2月号に掲載の情報です。

この記事に関連する「趣味」のキーワード

PAGE TOP