哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「それでも変わらない私」。
自分のライフスタイルを生きていくためにはどのようにしたら良いのか。
岸見さんはどのように考察されたのでしょう――。
前回の記事:「嫌いな自分」を変えたいけど...。「自分を変えられない2つの理由」
ライフスタイル
前回、ライフスタイルについて問題にした。
何かの課題を前にした時、それにどう対処するか、また、自分や他者をどう見るかが「ライフスタイル」の意味である。
これは普通にいわれる性格に相当するが、その言葉から連想されるのとは違って、生まれつきのものではなく、また変えられないものでもない。
アドラー自身は、このライフスタイルは、二歳には認められ、遅くとも五歳には選び取られるといっているが(『生きる意味を求めて』)、現代アドラー心理学では、十歳前後だと考えられている。
十歳前後といえば、小学校の三年生か四年生ぐらいである。
それまでのことはあまり覚えていない。
病気になったとか引っ越しをしたというような大きな出来事であれば断片的に覚えているが、時系列に思い出すことは難しい。
しかし、十歳を過ぎてからのことであればかなりはっきりと覚えているだろう。
その頃までは、いろいろなライフスタイルを試すのだが、その後は、よほどのことがなければ、このライフスタイルを変えることはない。
このライフスタイルで生きていこうと決心するのである。
自分を変えるというのは、厳密にいえば、このライフスタイルを変えるという意味である。
なぜライフスタイルを変えるのが難しいか、どうすればライフスタイルを変えることができるかは、前回見た通りである。
「私」が決める
ところで、このライフスタイルを変えるのもあるいは変えようとしないのも「私」である。
「私」がライフスタイルを使うのである。
どんなライフスタイルで生きていくのかは、自分で決められるということである。
ライフスタイルを自分で決められるというのは、どういうことなのか。
自分の思い通りにライフスタイルを決められるかというとそうではない。
ライフスタイルの決定に影響を及ぼす要因は多々ある。
例えば、きょうだい関係や親の価値観、また、どんな文化の中で生まれ育ったかというようなことである。
それでも、ほぼ同じ生育環境の中で同じ親に育てられたきょうだいのライフスタイルは同じではない。
その違いは、自分がライフスタイルを決めたからだとしか説明できない。
ところが、ライフスタイルのみならず、あらゆる行動は自分で選ぶのではなく、何かによって決められると考える人は多い。
脳科学では、次のような説明をする。
自分がある行動を選んでいるのではなく、行動は既に無意識のうちに選ばれているのであって、意識がそれを追認するだけだというふうにである。
選んだのは「私」ではなく、実際には脳であるのに、自分で選んだと思っていると後から思い込むということである。
しかし、自分が自分の行動を選んだのでなければ、その行動の責任を取ることはできない。
脳が自分の行動を決定しているといわれても、今この瞬間、自分がしていることも考えていることも、自分が決めているのではなく、脳が決めていると思えるだろうか。
私が決めるのではなく、脳が決めるとするならば、自分の人生に責任を持てないことになる。
自分の行動に責任を取りたくない人は、自分ではない何か別のものが決めると考える方が都合がいいのだろうが、例えば、若い時に好きになったこの人と結婚しようと思ったのは、実は「私」ではなく脳であったなどと考えられるだろうか。
前回見たように、アドラーは、人間は外界からの刺激に単に反応する存在(反応者、reactor)ではなく行為者 (actor)であるといっている。
人間はある出来事や経験から誰もが同じ影響を受け、それに対して同じ反応をする(react)のではない。
人は外界からの刺激や先に見た環境からの影響に単に反応する存在(反応者、reactor)ではなく、行為者 (actor)なので、外界からの何らかの刺激を受けた時にどう行為するかを自由意志で決めることができるのである。
その自由意志によって、自分がこれからしようとすることが善か悪かを判断する。
ここでいう善悪には道徳的な意味はないことについては前にも見たが、それぞれ「自分のためになる」「自分のためにならない(害になる)」という意味である。
自分のためになると考えてしたことが実際にはそうではないということはある。
その判断の誤りが人生に大きな影響を及ぼすということもたしかにある。
しかし、それが人生なのであって、間違うのも自分で決めたのではないというのであれば、人生は生きるに値するとは思えない。