織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!
嫉妬が越えさせた〝箱根の険〟
(足利将軍家の一門、代々駿河の守護を務める)今川氏にすれば、代々の家人ではない北条早雲(室町時代中後期から戦国時代にかけて活躍した戦国の世の幕を切った武将。当時は伊勢姓とされる)は、所詮、余所者にすぎない。
非常事態に遭遇して、彼の活躍に感謝はしても、喉元過ぎれば熱さは忘れるもの。
やがて余所者がのうのうと暮らしている姿に、おもしろくない感情を抱く者が出るのは明らかであった。
城を持たない今川家の、有力家臣もいたであろう。
そうした者の嫉妬を避けるには、今川氏の領内から外へ出る必要があった。
これは実に良い判断であったといえる。グズグズしていては、わが身があぶない。
〝緑色の目をした怪物〟(=嫉妬。シェイクスピアの名言)を早雲は恐れていたのだ。
目をつけた伊豆国韮山は、将軍の下に執権という権力ポストを創った、鎌倉幕府の北条氏の流れを汲む城主家であり、当主が亡くなって間髪を容れず、どういうわけでか早雲に、ぜひ養子入りしてほしい、との依頼をもたらす(異説もある)。
おそらく早雲が、日頃から忍耐強く誼(よしみ)を通じて、北条家の家臣の主だった者を懐柔していたのであろう。
少なくとも年齢的には、六十歳の人物を養子に迎えることは考えにくい。
が、この韮山城入りは早雲にとって、まだまだ野望の途中でしかなかった。
彼は今川氏親の信任が厚く、家中にも重きをなしている間に、〝箱根の険〟を越える計画をもっていたのだ。
そのうち、譜代の家臣の中に、己れの存在を心よく思わぬ者が出現する懸念があった。
そんなおり、氏親と意見の対立でもあれば、早雲は太田道灌(室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰)の二の舞となる。
共通の敵がいるとき、その相手が巨大であったならばなおさら、内側の結束力は強いもの。
世はすでに、乱世であった。
主君や重臣たちと感情的に行き違ったとき、わが身をどう処するか。
隠遁するか、主君を倒すか。
はたまた斬られるにまかせるのか、それとも別な道をきり拓くか――早雲は熟慮したうえで、別の道=箱根越えを計画したのであった。
この別の道の選択は、自らが新天地を求めることで生命ながらえ、一方では今川家の安泰をはかることにもつながった。
まさに、一石二鳥の妙案であったといえる。
延徳三年(一四九一)四月二日、「関東公方」の一・堀越公方の足利政知が没し、長子の茶々丸が跡を継承した。
そして七月一日、その彼が何を思ったか継母を殺害し、継母が産んだ幼い弟をも殺すという事件を引き起こす。
早雲はこの事件の報に接するや、すぐさま家督を息子の氏綱に譲り、自らは剃髪して早雲庵宗瑞と称し、隠居宣言を発した(この家系が、北条氏を名乗るのは次代の氏綱の代から)。
そのうえで、病気療養と弘法大師の霊跡を巡礼する、と周囲には吹聴しながら、早雲は伊豆の修善寺温泉に向けて出発し、しばしの逗留を決め込む。
茶々丸は、この偽装と早雲の年齢に油断した。
早雲は温泉につかりながら、退屈をまぎらわせるために、と称して山樵(きこり)を呼び、伊豆四郡の地理をこまごまと尋ね、うわさとして伝わる各々の武家、国人の内情などを、聞き上手に徹してしゃべらせ、幾人となく人々と接して、知りたいことを聞き出すと、そそくさと駿河に引きあげていった。
彼の目は、後方の堀越公方をかつぐ実力者の、関東管領・山内上杉氏にも向けられており、その動静は逐一、伝えられていた。
この用心深い男に、ぬかりはなかったろう。
他方の合戦に出撃して、堀越館(堀越御所)の警固が手薄になるのを知るや、手勢二百人と今川家からの援兵三百人の、合計五百人を率いて、早雲は堀越館を包囲すると、火を放って激しくこれを攻めたてた。
「われは今川殿の代官なり」
そういいつつ堀越公方の茶々丸を追い落とした早雲は、この公方を韮山の願成就院(がんじょうじゅいん)にて自害せしめている。
伊豆の人々は、早雲の軍勢に恐れをなして一斉に逃げ隠れた。
しかしながら、ここでも早雲は人心の鎮静化と掌握につとめ、他方、疾病に苦しむ村人には手厚い救済をおこない、人望を高めることを忘れなかった。
徒手空挙で、ついに伊豆一国を横領した早雲。
この辺りで己れの野望の矛をおさめてもよかった。
今日の感覚に置きかえれば、八十歳を超えてなお、新規の事業に乗り出す経営者がいるか否か。そのように、比較検討してみるとよい。
にもかかわらず彼は、さらに箱根の向こう側、相模国小田原を欲する。
なぜか、まだ安心ができなかったからだ。
もしも駿河国今川氏と戦うことになった場合、伊豆一国では国力の差が大きすぎた。
それを補うために早雲は、小田原を必要としていたのである。
早雲が実行した嫉妬を買わない方法
明応三年(一四九四)八月二十六日、小田原の名将・大森式部小輔氏頼(しきぶのしょううじより)が病没した。
氏頼のあとは、その子・信濃守藤頼(ふじより)が嗣いだが、早雲はしきりとこの人物に親交を結びたい旨を伝え、若き後継者を持ち上げて油断させ、一気に小田原城を乗っ取ってしまった。
六十四歳にして箱根を越えた早雲は、その後、さらに二十四年間(十七年間とも)を生きたが、さすがにこれ以上の領土拡大は考えなかった。
彼は今風にいえば、〝一人勝ち〟したと思われることを、徹底して避けたのである。
これ以上、何処かを攻め取れば、四方の実力者たちから畏伏(いふく)され、恐怖はやがて早雲の〝一人勝ち〟を許すな、との大同団結になる懸念があった。
まさしく、太田道灌の晩年のように――そうなれば、四面楚歌となってしまう。
日本人はとりわけ、〝一人勝ち〟を嫌い、そういう人物を嫉妬する民族の性癖のようなものを持っていた。
必ず、皆してその足を引っ張った。
攻めから守りに転じた早雲は、徹頭徹尾、領民をいつくしみ、下剋上を手伝わせた今川家や別途、山内と扇谷の両上杉家との交際にも細心の注意を払った。
一介の浪々の身から、早雲はついには戦国大名の先駆けに登りつめたが、その成功の秘訣は、すでにみた〝忍耐〟に徹する姿に尽きたが、その根底にあったのは、人間感情の機微を察する、苦労人の早雲ならではの配慮に負うところが大きかった。
「竊(ひそか)に恐るらくは、後の今を見むこと、今の古を見る猶くならむ」(『古語拾遺』)
といったのは、平安時代初期の神祇官・斎部広成(いんべのひろなり)であったが、人間は「そういえば、あの時――」と遅まきながらに、過去をふり返って気づく生きものである。
愛情や信頼は、ほんのわずかな感情の行き違いで、瞬時にして憎しみや怒りにかわるもの。
かの清少納言もいっている。
「世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれんことこそあるべけれ」(『枕草子』)
早雲は、今川家の人々に嫉妬されることを恐れた。
彼の場合、人をおとしめて己れがのし上がるという荒技を用いただけに、なおさら周囲はこの成り上がり者を恐れ、忌み嫌い、余所者に〝緑色の目〟をむけることが予測できた。
早雲の警戒は、徹底したものであったろう。
その証左に彼は占領地の民に慕われ、飛躍する端緒ともなった今川家の人々にも、心底、信頼されつづけた。
信義を貫くためには、七十を超えても早雲は関東の合戦に付き合いで出撃している。
この律儀さの演出こそが、嫉妬をかわす秘訣であり、この人物を長生きさせてその名を、後世に伝える源となった、と考えるべきではあるまいか。
現代を生きるわれわれも、嫉妬を買わない工夫については、熟慮すべきである。
最も良い説得方法の一つは、相手に気に入られることである。
うまく気に入られるためには、交渉家は気持ちのよいことを話すように努力し、また、耳障りな(聞いていやな感じがする)話も、言いまわしや、語調や、表情や身振りをえらんで、やわらかく聞こえるようにつとめなければならない。(カリエール『外交談判法』)
一理ある。
とりわけ、上司に対しては。
己れに靡(なび)く者には慈悲をもって接し、逆らうものには断固とした姿勢で臨む――これは戦国乱世の鉄則だが、この時代とは異なる現代社会においては、敵を討つことよりもむしろ、周囲の人々に常日頃から気を配り、常に嫉妬されないように心掛けるべきである。
それが保身にもつながるのだが、言うほどにこのことは簡単ではなかった。
なにしろ、どれほど用心しても、密かに身辺にしのび寄ってくるのが嫉妬の影である。
人間そのものが難解なうえに、嫉妬の感情は魔魅跳梁(まみちょうりょう)の世界。これをかわすのは容易なことではない。
とくに相手が上司で〝力〟をもっていれば、下の者はその対処に困惑してしまう。
しかし、この難問を解決しなければ、おちおちと現代社会は生きていけない。
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