教養として学んでおきたい「日本史」。でも「少しはみ出したエピソード」を知っておくと、とたんに話題が豊かになるかもしれません。そこで、オンライン予備校「スタディサプリ」の人気講師である伊藤賀一さんの著書『笑う日本史』(KADOKAWA)より、面白くてためになる、そんな日本史の話をご紹介します。
夫の秀吉のみならず信長も家康も!日本史上最高のモテ女・ねね
ねねは、天下人・豊臣秀吉の正妻です。秀吉の女性関係に困っていたねねに対し、主君の織田信長が手紙を送ったというエピソードは有名。「夫の女遊びが激しくて......」と、ねねが信長に訴えたところ、信長は紳士的な手紙の中で秀吉を叱ったというものです。
信長は「あなたは、以前お会いしたときよりもはるかに美しくなった。藤吉郎(とうきちろう―秀吉のこと)が何か不足を申しているようだが、言語道断であり、けしからん。あの禿げネズミが、あなたほどの女性を再び妻にすることなどできようか。今後は正妻として堂々とし、嫉妬する素振りは見せぬように。女房の役目として、言いたいことはある程度に留めるといい。それから、この手紙を藤吉郎にも見せなさい」と返信。
もう、ほとんどラブレターですよ。「こんな手紙をもろたら惚れてまうやろ」というくらいの優しさです。女性が読みやすいよう、ひらがなで書いてるあたりも......。
信長がこの手紙を送ったのは1581年ごろと言われています。本能寺の変の前年ですね。当時の秀吉はというと、信長の命を受け中国地方の毛利攻めの総大将に任命されていました。もちろん立場上、信長の命令は絶対。私生活でも信長にひと言言われれば、従わざるを得なかったでしょう。
じつは、このねね、徳川家康にもモテてるんですよ。秀吉、信長、家康と、日本の頂点だった3人の男を惹きつけた。日本史の歴代女性の中で、相手の「格」や「質」を考えれば、最もモテたのは彼女でしょう。
当時のモテ女といえば、浅井長政と柴田勝家に嫁ぎ、秀吉に惚れられていた信長の妹、お市の方が思い浮かびますが、彼女の場合はお姫様扱い&政略結婚。
ねねは、容姿が特段秀でていたわけではないようです。どちらかというと、おふくろさん的な包容力が魅力だったんじゃないでしょうか?
秀吉との間には子どもがいなかったので、石田三成、加藤清正、福島正則らを少年時代から我が子のように可愛がりました。彼らにとっても、ねねは育ての親のような存在であり、大変慕っています。
現代では「男の顔は履歴書」「女の顔は請求書」などと言っていますが、当時も、人は顔だけじゃない感じだったのかもしれませんね。
<MEMO>ねね(生年は諸説あり~1624年)
通称・北政所(きたのまんどころ)、出家後は高台院(こうだいいん)。豊臣家を取り仕切る不可侵の存在で、朝廷との交渉まで引き受ける。豊臣政権下で大きな発言力と高い政治力を有し、関ヶ原の戦いで彼女が東軍の徳川家康の支持に回ったことは、勝敗の帰趨(きすう)を分けたともいえる。
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