教養として学んでおきたい「日本史」。でも「少しはみ出したエピソード」を知っておくと、とたんに話題が豊かになるかもしれません。そこで、オンライン予備校「スタディサプリ」の人気講師である伊藤賀一さんの著書『笑う日本史』(KADOKAWA)より、面白くてためになる、そんな日本史の話をご紹介します。
大坂の役で活躍しまくった真田幸村は歯がボロボロのおじいちゃんだった
真田幸村、本名は信繁(のぶしげ)。伊達政宗とともに"歴女"から絶大な人気を誇る戦国武将。猿飛佐助ら"真田十勇士"のように、幸村に仕えたとされる架空キャラも創作されて、史実と空想が入り交じった大カリスマです。
そんな幸村の人生のハイライトは、なんといっても大坂の役での戦いぶり。江戸幕府を開いた徳川家と、従わない豊臣家との最終戦で、豊臣方が立て籠もる大坂城を徳川方が包囲しました。幸村が加勢したのは、圧倒的不利な豊臣方。しかし、義に駆られ、赤で統一した武具や旗を用意し、「真田六文銭」軍団を指揮します。そんな男気が乙女心を掴つかんで離さないんでしょうね。
大坂の役は冬と夏の二度行われていますが、一度目の大坂冬の陣では、真田丸という砦を大坂城の南に築き、徳川方を退けるという驚異的な戦果を上げています。そして大坂夏の陣。激戦の中、徳川方の伊達政宗隊を後退させるなど、獅子奮迅の活躍。
そんな幸村は、豊臣方の敗北が決定的となった時点で本陣に勇ましく単騎で突っ込み、家康を怯えさせますが、奮戦空しく戦死します。最期は、「名のある武将と見受ける。手柄にせよ」と自ら敵兵に首を差し出したという逸話も。こんな散り際、かっこよすぎでしょ!
ですが、待ってください。幸村が生まれたのは1560年代末期。大坂夏の陣は1615年なので40代後半。当時の寿命で見れば、シニア世代なんです。幸村は、関ヶ原の戦いで負けた西軍についたことから、紀伊国(きいのくに―現在の和歌山県)の九度山(くどやま)で幕府に監視され暮らしました。その間にすっかり白髪だらけ。歯までボロボロに抜け落ちちゃったと、自分自身が親類への手紙に書いているくらいでした。
<MEMO>真田幸村(さなだゆきむら―1567~1615年)
本名は真田信繁で、幸村は後世の軍記物でつけられた名とされる。
関ヶ原の合戦では西軍として従軍するが敗戦。その後、大坂の役に参戦する。旗印の六文銭は三途の川の渡し賃で、命を惜しまないことを意味している。
イラスト/おほしんたろう
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