夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。WEB連載で33万人が笑い、そして涙した「家族の実話」を、藤井さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より第2章の途中(全6章)までを抜粋、7日間連続でお届けします。
19年間つづけたバイオリンだが、本人も「超音波怪獣」と自覚していたようだ= 2016年
あちこちに転移か。サケ缶料理も発酵調味料でホクホク
10月になってパートをやめた妻は、「自分へのごほうびや」と、ペルシャじゅうたんに似た天然染料の玄関マットとジノリの洋食器を買ってきた。
数日後、友人夫妻と食事するため、京都に向かう列車を待つホームで、妻はしきりに左の首筋をさわっている。
「どうしたん?」とたずねると、
「ちょっとふくらんでるねん」さわると、リンパがパチンコ玉ほどに腫れている。
顔面から血の気が引いて、周囲の風景の色が消えていった。
翌日、病院に行くと、主治医は「リンパの流れと逆だから、ゼロではないが転移の可能性は低い」。
12月の検査まで様子を見ることになった。
12月11日、PET(陽電子放射断層撮影)検査の結果を聞きに病院に行った。
主治医は深刻な顔をしている。
検査結果の紙には「転移と見られる」。
リンパだけではなく、手術箇所とは反対の右側の鎖骨あたりにもがん細胞らしい反応が見られるという。
「切除した際にリンパの流れが変わってしまった可能性がある」との説明だった。
耳鼻科の医師も「硬くてPETに反応しているということは、手術でとってみた方がいいでしょう」。
さらに手術前のコンピューター断層撮影(CT)で、もうひとつ肥大したリンパが見つかってしまった。
3カ所を同時に切るから全身麻酔になるという。
妻は結婚した1999年以来、バイオリンを習ってきた。
調子っぱずれな音を毎晩響かせるのがおもしろくて、演奏する姿を僕は「超音波怪獣」と呼んでいた。
だが首を手術したらバイオリンを弾けなくなる。
「バイオリンができない間はピアノでもやらんか?」と提案し、クリスマスのプレゼントに電子ピアノを注文した。
入院する12月26日の朝食は、妻が、大根とかぶの葉とじゃこを炒めてごはんに混ぜておにぎりをつくった。
アゴ(トビウオ)のだしのみそ汁を、「能登のアゴは最高やね」と話しながらすすった。
入院までまだ時間があるからと、大鍋いっぱいのポトフもつくってくれた。
貴重な時間が過ぎ去っていく。
昼前、2人で病院に向かった。
夜、病院からひとりで帰宅した。
何もしてあげられない無力感で心身ともにつかれきっていた。
ふと食卓を見ると、鬼のイラストとともに「しんどいときでもこれなら簡単につくれるぞ」と記された「キャベツとサケ缶の重ね蒸し」のレシピが置いてあった。
キャベツをざく切りにして、じゃがいもの皮をむいていたら妻からメールが届いた。
「じゃがいもの芽は取るんやぞ」
すっかり忘れてた。
フライパンで蒸し煮にしていたらまたメール。
「中火で10分。火を消してバターと塩少々を入れて、少し余熱で蒸したらええ。食べるときにはしょうゆもな」
コショウをふって、皿に盛り付けたとき3度めのメール。
「イシルはどうした?」
あわてて能登の魚醤イシルを取りだしてじゃがいもの上にポタポタたらしたら、うまい!
もともとサケやじゃがいもはバターやしょうゆと相性がよい。
それにイシルという新たな発酵調味料が加わり、抜群のうまみとホクホク感をかもしだしていた。
(つづく)
イラスト/藤井玲子
【次のエピソード】手術したけれど、転移していたら...。「妻の通夜」の夢を見た僕/僕のコーチはがんの妻(6)
【最初から読む】「イボやなくてメラノーマ(悪性黒色腫)やて」妻から届いた1通のメール/僕のコーチはがんの妻(1)
6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録