夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。WEB連載で33万人が笑い、そして涙した「家族の実話」を、藤井さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より第2章の途中(全6章)までを抜粋、7日間連続でお届けします。
2001年、子宮筋腫の手術前に描いた絵=2011年
寒々とした部屋で平らげたポトフ。夢に現れた妻の通夜
入院翌日の手術は午前11時からの予定だが、正午になっても声がかからない。
「待つのはしんどいけど、先生にはちゃんとごはんを食べてからにしてほしいわ。手術中に、メス!鉗子(かんし)!アンパン!なんて言われたらかなわんもんなあ」
「でも私みたいにおなかいっぱいになって眠くなるタイプだったらこまるなあ」と、妻は軽口をたたいている。
午後0時半に呼ばれた。
「行ってくるわ!」
「がんばってこい」
3階の手術センターの入り口でハイタッチして見送った。
予定時間は2時間半だが、午後3時になっても終わらない。
何かあったのだろうか。
心配になってきた午後3時半、ベッドに横たわって帰ってきた。
午後7時すぎ、執刀した耳鼻咽喉科の医師が病室に来てくれた。
「首のリンパは静脈とくっついていたから、静脈も切った。リンパ腫の大きさは1センチちょっと。右の鎖骨の裏側は、硬いリンパ節が三つ連なっていた......。転移だった場合、周囲のリンパを取りのぞくことはむずかしいと思う」
静脈にくっついていたということは、血液にのって全身に転移している可能性が高いのではないか?
妻のいる病室では質問することはできなかった。
検査結果は年明けの1月に出る。
もし転移していたら、免疫細胞を活性化させてがん細胞を攻撃させる免疫チェックポイント阻害薬か、特定の分子を制御する分子標的薬か、治験による最先端の治療か......といった選択肢がある。
手術翌日の主治医の説明の際、勇気をふるって「大阪国際がんセンターでセカンドオピニオンを聞きたい」と申し出た。
最初に告知をされたときに調べた、症例数の多い、専門医のいる病院だ。
「セカンドオピニオンでは保険がきかない。紹介での受診という形にしたらどうでしょう」と言ってくれた。
妻は診察後、「楽観できないのはわかってるけど、手術前よりふっきれた気がする」と言った。
その日の夕食は妻が入院前につくってくれたポトフをあたためた。
3カ月ほど前、妻のレシピをもとに自分でつくったときはじゃがいもが煮くずれたのに牛肉は硬かった。
今回妻がつくったポトフは塩味も野菜の火加減もぴったり。
事前に牛肉だけ圧力鍋にかけていたから、肉も軽くかみ切れる。
隠し味の砂糖が効いて味の幅も広い。
あつあつのポトフを平らげると、マンションの部屋が急に寒々としてきた。
歯もみがかずにふとんにころがりこんだ。
夢を見た。
妻が亡くなり、僕は通夜であいさつしている。
自分の身体の半分がなくなってしまった。
生きる気力を失い、山奥で野たれ死にしたいけど、一周忌までは許されない......。
朝起きたら、枕がべっとりぬれていた。
12月31日に妻は退院し、近所の和菓子屋で、正月用のつきたての丸餅を買った。
家に着き、クリスマスプレゼントで買った真新しい電子ピアノを見た妻は「オーッ!」と歓声を上げて、「もしもピアノが弾けたなら」を弾いた。
夜は、島根県奥出雲町から届いたばかりの粉で蕎麦を打った。
例によってブチブチに切れてしまい、蕎麦というよりうどんに近い「ソドン」になってしまったが、新蕎麦だから風味は抜群だった。
2018年はおだやかな年になりますように。
(つづく)
イラスト/藤井玲子
【次のエピソード】転移の告知後、妻が僕の目を見つめて言ったこと。/僕のコーチはがんの妻(7)
6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録