日本語だけにある表現「生きがい」とは何か/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「生きがい」です。

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生きがいは「今」感じる

精神科医の神谷美恵子は「生きがい」は日本語だけにある表現だといっている(『生きがいについて』)。

たしかに、外国語では「生きるに値する」とか「生きる価値がある」「生きる意味がある」というふうにしか訳せない。

例えば、アドラー(※1)は、「人生は限りあるものではあるが、生きるに値するものにするだけの長さは十分にある」(『子どもの教育』)といっている。

これらが「生きがい」の訳として適当かということよりも、問題は、このようであれば生きがいがあるとかないとか、生きることに価値がある場合とそうでない場合があるかというふうに生き方に条件がつくのか。

「生きがいを感じられない生き方」とか、「価値のない生き方」があるのだろうか。

例として引いたアドラーの言葉を見ても、人生を生きるに値するものに「する」時間は短くても必要であるということであり、人生が生きるに値するものでは「ない」時があることを含意している。

神谷は病気の人を例にして、次のようにいっている。

「将来の或る時を待ち望んでただ現在の苦しい生を耐え忍んでいなくてはならないひともある。この場合にも現在の毎日が未来へと通じているという、その希望の態勢に意味感が生じうる」(前掲書)

「意味感」はフランクル(※2)が使う言葉だが、神谷は「生きがい感」とほぼ同じ意味で使っている。

神谷は、この「生きがい感」を「幸福感」と区別している。

生きがい感は幸福感の一種で、しかもその一番大きなものだが、この二つを並べてみると、そこにニュアンスの差が明らかに認められるという。

「生きがい感には幸福感の場合よりも一層はっきりと未来にむかう心の姿勢がある。たとえば、現在の生活を暗たんとしたものに感じても、将来に明るい希望なり目標なりがあれば、それへむかって歩んで行く道程として現在に生きがいが感じられうる」(前掲書)

しかし、問題は、神谷はたとえ苦しくても、将来に明るい希望があれば生きがいを感じるというのだが、それでは、不治の病に侵され未来への道が塞がれている人は未来に希望が持てず、生きがいを感じられないことになる。

「現在の幸福と未来の希望と、どちらが人間の生きがいにとって大切かといえば、いうまでもなく希望の方であろう」(前掲書)

神谷は当時は不治の病だとされていたハンセン病の患者の治療に当たっていたが、自分の病気は治らないと思っていた患者は明るい希望を持つことができたのだろうか。

不治の病でなくても、重病の人が未来に明るい希望を持つことは難しいだろう。

神谷は次のようにいっている。

「はっきりした終末観をもつ信仰の持ち主には、この確固たる未来展望がおどろくべき強さをもたらし、現在のあらゆる苦難に耐える力を与える」(前掲書)

たとえ今どんなに苦しくても、死後に必ず救済されると信じられれば、苦難に耐えることができるのだろう。

しかし、そのような信仰を持たない人は、未来に明るい希望を持つことはできないことになる。

未来に希望を持てなければ、現在の苦難に耐えることはできないのか。

「おどろくべき強さ」を持てない人はどうすればいいのか。

希望を未来に結びつけてはいけないのである。

いけないというより、できない。

未来は「未だ来らず」というより、ただ「ない」からである。

このことは、どれほど明日起こるであろうことを想像してみても、未来が「今」の想像通りになることはないことからわかる。

「ある」と思っている未来は、「今」想像している未来でしかない。

実際、必ずよくなると思っていても、悪くなることはある。

反対に、治る見込みはまったくないと絶望していても治癒することはある。

病気に限らず、未来に何が起こるかは誰にもわからない。

さらに問題は、未来に希望を持てなければ、生きがいを感じられず、したがって、人生は生きるに値しない、生きる価値がないと考えることである。

このように考える人にとっては、何かを成し遂げることにこそ価値があるので、病気になって回復しなかったり、歳を重ねて身体の自由が利かなくなったりすれば、もはや自分には価値がないということなのである。

神谷はいう。

「多くの男のひとにとって家庭生活の幸福は、それだけで全面的な生きがい感をうむものではないだろう。ところがどんなに苦労の多い仕事でも、これは自分でなければできない仕事である、と感ずるだけでも生きがいをおぼえることが多い」(前掲書)

家庭生活に限る必要はないが、日常生活の中で誰もがふと感じる幸福が生きがいになる。

何も成し遂げなくてもいい。

病気の回復が望めず、未来に希望を持てないと見える状況にあっても、幸福を感じられる瞬間がある。

父が認知症であるという診断が下され、薬が処方された。

その際、医師は、その薬は症状の進行を抑えることはできるが、症状を改善することはできないと説明した。

要は、その薬を使ってもあまり甲斐はないということである。

それでも、薬を服用させるかと医師から問われた時に、断ることはできなかった。

海馬の萎縮状態から判断して、余命が何年かが告げられたが、手を拱いて何もしないわけにはいかなかった。

医師から父の病気についてこのような説明を聞かされた時、家族には何の希望もないのか。

ただ、絶望するしかないのか。

病気の父は生きがいを感じられず、父にとって人生は生きるに値しないのかといえばそうではないだろう。

家族にとっては、どんな状態であっても父が生きていることがありがたいと思えた。

病気の家族についてこのように思えるようになれば、自分自身についても、どんな状態の時も自分が生きていることに価値があると思えるようになる。

その時、未来に何が起こるかはもはや問題ではなくなるだろう。

※1 アルフレッド・アドラー(1870~1937年)オーストリアの精神科医、心理学者。
※2 ヴィクトール・フランクル(1905~1997年)オーストリアの精神科医、心理学者。代表作は『夜と霧』。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『老後に備えない生き方』

(岸見一郎/KADOKAWA

2018年から今年3月号までの連載が一冊になりました。読者の皆さんから寄せられた質問を手掛かりに、ギリシア哲学の専門家である岸見先生がアドラー心理学も駆使しながら、より良く生きるための考え方を考察します。

この記事は『毎日が発見』2020年11月号に掲載の情報です。

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