「共鳴は一人では起こらない」人とつながりの中で生きる/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「人とつながりの中で生きる」です。

「共鳴は一人では起こらない」人とつながりの中で生きる/岸見一郎「生活の哲学」 pixta_74322292_S.jpg

過去と現在のつながり

アントン・チェーホフ(※1)に「学生」という短編がある。

神学校の学生であるイワン・ヴェリコポーリスキーが、ある時、ヤマシギ猟からの帰り、畑の一角が焚き火で明るく浮き上がっているのを目にした。

イワンは焚き火の側に佇んで物思いに耽っているワシリーサと娘のルケリヤに声をかけた。そして、ちょうどこんなふうに寒い夜に、使徒ペテロ(※2)も焚き火に当たって暖をとっていただろうと、ペテロの話を始めた。

イエスが彼を捕らえた祭司たちから死刑を宣告された時、ペテロは我が身にも危険が及ぶことを恐れた。ペテロに目を留めた人が「この人はイエスと一緒だった」といった。彼をも尋問にかけるべきだというのだ。イエスの一味であると思われたくなかったペテロは度を失って「私はあの人を知らない」といった。

ペテロが三度イエスを否認すると、鶏が鳴いた。その時、ペテロは、その日の朝イエスが「あなたは今日、鶏が鳴く前に、三度私を知らないというだろう」といっていたことを思い出し、激しく泣いた。「学生はふっと溜息をついて、物思いに沈んだ。笑みをたやさないワシリーサがいきなりしゃくりあげると、大粒の涙が彼女のほほを伝った。彼女はその涙を恥じるように、焚き火のほてりから袖で顔をかくした。ルケリヤはまじまじと学生を見つめながら、ぽっと顔を赤らめた。その表情は、激しい痛みをこらえる人のように、重苦しく、きりりと引き締まったものになった」(「学生」『馬のような名字』所収、浦雅春訳)

イワンは考えた。ワシリーサが涙を流し、その娘が顔を曇らせたとしたら、自分が今語った千九百年も前の出来事が現在とつながりを持っているということだ、と。

「過去というものは、次から次へと起きる出来事の途切れることのない連鎖によって、しっかりと現在と結び合わされている──そう彼は考えるのだった。そして、自分はたった今その両端を目にしたような気がする。一方の端がふるえると、もう一方の端がぴくりとふるえたのだ」(前掲書)

「一方の端」というのは、ペテロが師を否認したことを悔いて泣いたこと、「もう一方の端」というのは、母娘に起きたこと、とりわけ、ワシリーサが話を聞いて涙を流したことである。イワンのこの言い方では、歴史は因果律の中にあって、ある出来事が必然的に別のある出来事を生起させることになる。しかし、千九百年前の出来事が現在の出来事に因果的につながるとは考えにくい。

※ 1(1860~1904年)ロシアを代表する劇作家、小説家。作品に『桜の園』『三人姉妹』などがある。

※ 2 イエス・キリストに従った弟子の一人。初代ローマ教皇とされる。

意味の歯車

キム・ヨンス(※3)の小説の中に次のような一節がある。

「私たちは人生とは不可思議なものといえない理由を見出すことになる。たとえ記憶力がよくなくて、途中いくつかの歯車が抜けたように見えたとしても、とにかく、人生は互いに噛み合った歯車装置に似ているのだから。すべてのものには痕跡が残ることになっており、だから、私たちは少し時間が経ってからやっと最初の歯車が何だったかがわかるのだ」(김연수「세계의끝 여자친구」『세계의 끝 여자친구』所収)

何かが偶然起きたように見え、しかもそれが不可解に思えたとしても、実はその出来事を生起させる出来事があったはずである。それを知らないので、途中の「歯車」が抜けているように見えるが、その歯車を知れば、人生は不可解なものではなくなることになる。

しかし、歯車がすべて揃い、その意味で起きたことは必然だとわかったからといって、人生が不可思議なものでなくなるわけではない。同じ出来事が同じ結果を引き起こすとは限らないからだ。同じ先生に学んだとしても、同じ本を読んだとしても、誰もがそのことから大きな影響を受けるわけではないだろう。

人生を不可解なものといえなくする理由は、因果律の歯車ではなく、いわば「意味の歯車」である。誰かと出会ったことが、その時は気づかなくても、後になって自分の人生にとって重要な意味があったことに気づくとしたら、それは意味の歯車を見つけたということである。出来事に意味を与えるのは自分なのである。

※3 (1970年~)韓国の小説家。著書に『世界の果て、彼女』『ぼくは幽霊作家です』などがある。

共鳴

イワンは、もしもワシリーサが涙を流したとすれば、ペテロの身に起きたことに何か思い当たるふしがあるのだ、ペテロの心の中に起きていたことを彼女が身と心でしっかりと受け止めたからだと考えた。それが具体的にどういうことなのかは、小説には何も書かれていないが、イワンからペテロの話を聞いた時、彼女はペテロの身に起きたことを我が身に起きたことのように感じた。彼女もペテロと同じように自分が愛する人を裏切ったことを思い出したのかもしれない。それでも、ペテロがイエスから赦されたように、自分の罪も赦されると思ったかもしれない。

その時、ワシリーサの心は震え、ペテロの悲しみが彼女の心の中で共鳴した。こうして、千九百年という時間と空間を超えて、歯車が噛み合ったのである。

イワンは母娘に会うまでは、たとえ千年の月日が流れようと、生活は決してよくならないだろうと思って、家に帰る気がしなかったのだが、二人の心の中に起きた共鳴はイワンにも伝わった。

「すると、若々しく、健康な力がみなぎってきて──そう、彼はまだ二十二歳なのだ──言いようもなく甘美な幸福へのあこがれ、まだ見ぬひそかな幸福への期待が次第に彼の身をひたし、この人生が気高い意味に満ちた、何かうっとりする、驚嘆すべきものに思えてくるのだった」(「学生」)

共鳴は一人では起こらない。人と人がつながる時、共鳴が起きる。人と人がつながったと思える時、──その人は目の前にいることもあれば、死んだ人のこともある──孤独ではなくなる。

ただし、待っていては誰ともつながれない。イワンが焚き火に歩み寄ったように何か行動を起こすか、過去を振り返って今につながり、今の自分と共鳴する意味の歯車を見出そうとしなければ。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2022年12月号に掲載の情報です。

この記事に関連する「ライフプラン」のキーワード

PAGE TOP