権威に服従しない「私」。「私が『ひと』ではなく『私』であることを知ること」/生活の哲学

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「権威に服従しない『私』」です。

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合理的権威と非合理的権威

洗脳やマインドコントロールというような言葉を聞いても、自分は簡単に人の言いなりにならないと他人事のように受け取る人がいるかもしれないが、実際には知らない間にコントロールされていることがある。

「知らない間に」というところが重要である。洗脳したりコントロールするのは何らかの意味での「権威」だが、この権威が目に見えている場合は、たとえその権威に服従したとしても、そのことを知らないでそうするわけではない。しかし、洗脳された人は自分が権威に服従していることを知らない。

フロム(※1)は、目に見える権威を「合理的権威」と「非合理的権威」に分けている。合理的権威は能力に由来する。合理的権威を持っている人が尊敬されるのは、委ねられた仕事を巧みに処理できるからであり、決して何か魔術的な力を持っているとか、カリスマ性があるとかではない。知識があり、それに基づいて仕事ができる人は合理的な権威を持っているのである。

理性に基づき理性の名において行使されるこの合理的な権威に従ったとしても、理性は普遍的なものなので、権威に服従したことにはならない。教師は学生が間違えたらそれを指摘する。反対に、教師が学生から誤りを指摘されても感情的になることはない。

他方、非合理的権威は能力ではなく、人を支配する力に依る。この権威に必要なのは、まず、支配する側の圧倒的な力である。次に、この権威に従う人の不安や恐れである。似非宗教者は献金しなければ地獄に落ちるとか先祖が祟るというようなことをいって、不安を煽る。少し考えたらおかしいことがわかるはずだが、本当かもしれないと不安になる人はいるであろう。

常は判断能力を持っている人でも、健康な人が思いがけず病気で倒れたような時には心が弱る。心が弱ると、冷静に判断できなくなる。そうなると、自分を苦境から救ってくれる人に縋ってしまい、容易にコントロールされてしまう。

組織に所属している人であれば、おかしいと思っても、上司に従っている方が無難だと思ったり、命令に従わなければ生活できないと思ったりすると、やがて自分では考えなくなり、権威に服従してしまう。

この命令に従ってはいけないのではないかと考えられる人であれば、たとえ権威に従ったとしても、それが非合理的権威であることを自覚しているが、自覚していない人は権威に従うことが自分の仕事であると考え、その権威が非合理的なものだとは考えない。

フロムは、ナチスによるユダヤ人大虐殺の責任者であるアドルフ・アイヒマンの例をあげている。彼は自分が無罪だと思っていた。フロムは次のようにいっている。

「もしも彼が同じ状況に置かれれば、同じことをまたするであろうことは明らかだ──そして、私たちも」(OnDisobedience)

アイヒマンは我々すべての象徴であり、自分の中にアイヒマンを見ることができる、とフロムはいう。自分が権威に無批判に服従していることすら気づかないのはアイヒマンだけではないだろう。

※1 エーリッヒ・フロム(1900~1980年)。ドイツ出身の社会心理学者、精神分析学者。著書に『自由からの逃走』などがある。

匿名の権威

非合理な権威は自分がそれに服従していることを自覚しないことはあっても、目に見える。

フロムは、二十世紀半ばぐらいから権威はそれまでとは性格を変えたと指摘している。目に見えない匿名の権威が現れたのである。

そのような権威には、自分が服従していることは気づきにくい。誰も命令せず、従うことを強いられることはないので、服従しているのではなく自発的に従っている、自分が従っている権威は合理的なものだという幻想を抱くことになる。

その権威というのは、常識、世論、「ひと」がしたり、考えたり、感じたりすることである。

そのような権威に従うのは、個性を持った「私」ではなく、一般的な「ひと」(man)である。他の誰とも異なっていてはいけないと思うことは、匿名の権威に屈しているということだが、そのことに多くの人は気づいていないだろう。


「私」になる

それでは、どうすれば権威に服従しないで生きられるだろうか。

フロムは次のようにいっている。

「デカルト(※2)は、個人としての私の存在を、私が考えるという事実から推論した。彼は論じた。『我疑う。ゆえに我思う。我思う。ゆえに我あり』と。この逆も真である。
もしも私が私であり、私が『それ』の中で私の個性を失っていなければ、私は考えることができる、つまり、私の理性を使うことができる」(The Sane Society)

ところが、「それ」(世間や常識)の中に埋没し、個性を失ってしまった人は考えることができなくなっている。

さらに、そのような人は他者をも他ならぬ個人ではなく、一般的な「ひと」としてしか見ることができない。これだけ多くの人が亡くなったコロナ禍においても、一人の死に心を痛めない人はアイヒマンと同じである。

服従しないために何が必要か。フロムは次のようにいっている。

「理性は関係づけと自己感覚が必要である。もしも私が印象や思考や意見の受動的な受け手にすぎないとすれば、それらを比較したり操作したりすることはできても、見抜くことはできない」(前掲書)

「自己感覚」というのは、私が「ひと」ではなく「私」であることを知ることである。印象、思考、意見をただ受動的に受け入れるのではなく、理性によって物事の本質や核心を見抜かなければならない。それができなければ、権威に服従することになってしまう。

救いはある。人間は「受動的な受け手」(passive receptor)ではないからである。たとえ子どもの頃からこれまでずっと「私」をなくす教育を受けてきたとしても、また、無批判に権威に服従してきたとしても、理性によって判断できるようになれば、権威の呪縛から解放される。時間がかかるとしてもである。

※2 ルネ・デカルト(1596~1650年)。フランスの哲学者、数学者。著書に『方法序説』などがある。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2022年10月号に掲載の情報です。

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