「自分自身と共に知る」良心の声を聞く/生活の哲学

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「良心の声を聞く」です。

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良心の語源

何か悪事を働いた人は良心の呵責を感じることはないのかと思うようなことばかり日々起こる。

「良心」というのは「われ知る」という意味である。ただし、なぜこの意味になるのかは、英語のconscience の語源を探らなければならない。(※1)conscience(コンシャンス)はsyneidesis(シュンエイデーシス)というギリシア語をそのままラテン語に直訳したconscientia(コンスキエンティア)に由来する。日本語の良心とは違って「よい」という意味はない。

「シュン」(syn)や「コン」(con)は「一緒に」「共に」という意味なので、シュンエイデーシスやコンスキエンティアは「何をー誰と共にー知る」という意味になる。

一体、誰と共に何を知るのか。誰と共にかといえば、自分自身である。「自分自身と共に知る」というのはいささか奇異な表現に聞こえるかもしれないが、すぐ後で見るようにギリシア語の慣用表現である。まず、何を知るのかを考えてみよう。

普通は自分が今何をしているかを知っており、何をしたかを覚えている。もちろん、何もかも正確に覚えているわけではないが、若い人がそれほど昔のことでもないのに、会合に参加したことも、海外に行ったことも覚えていないと公言して憚らないのは驚きである。

他者から指摘されて記憶が呼び覚まされたとかというような人は、本当は忘れていたのではない。

深い催眠状態にある人は、目を開き、歩いたり話したりしても、その活動は自発的ではない。自分では制御できない強制的な力に駆られて何かをしても、それは自由意志による「行為」ではない。日常の行為は催眠時の行動とは違うのである。

催眠時であれば、その行動(行為ではない)は強制されたものなので責任はないが、その時々で自分でこれをするという自由意志による行為には後に忘れたとしても責任が伴う。「知らなかった」は通用しない。

※1 明治期にconscience の訳語として「良心」という言葉が充てられた。

自己否定的認識

この「知る」はただ自分がしていることを意識しているかどうかというだけではない。「共に」という時、他者と共にではなく、「自分自身と共に知る」のである。多くの場合、自己否定が含まれる。

ソクラテスは「自分より賢いものは誰もいない」というデルポイのアポロンの神託を聞かされて困惑した。

「なぜなら、私は大にも小にも知者ではないことを自覚しているからだ」(プラトン『ソクラテスの弁明』)

もう少しギリシア語を直訳すると、「私は私が知者ではないことを私自身と共に知っている」となる。ソクラテスは自分が知者ではないことを、他の誰かにいわれるまでもなく、自分自身が証人となって認めているのである。

無知だけでなく、他にも何か否定的なこと、例えば、失敗、不正、非行など、何か恥ずかしいこと、みっともないことについても、他の人は知らなくても自分自身は知っている。自分がいかに正義の人から遠いかを知るのである。

このような自分について否定的な認識ができる、つまり、自分が何も知らないことを知ったり、自分を厳格に評価できたりするためには、知を求め、正義の人であろうとしなければならない。

ソクラテスは自分が知者でないことを自覚し、その意味で自分が足らないことを知っていたからこそ知を求めた。ソクラテスは「知者」ではなく「愛知者」(哲学者)だったのである。

ところが、知者であることを自認している人は、自分に足らないことがあるなどとは思いもしなかっただろう。それゆえ、さらに知を求めようとはしなかった。

オイディプス王はテバイ(※2)にふりかかった災いの原因を探すべく父親殺しの下手人を見つけ出そうとした。ところが、自らの辿った人生を振り返ると、思いがけず自分が預言通り父を殺し母を妻としていたことを次第次第に知っていった。悪事を隠していた人が他の人から指摘され記憶が蘇ったなどということとは比べるべくもない。

自分の忌まわしい過去を知り、自ら短剣で目を突き盲目となったオイディプス王は、実の息子たちによって故国を追われ、老いた身で他国を放浪する運命となった。

※2 古代ギリシアにあった都市国家。ギリシア神話でオイディプス王はテバイを治めたとされる。

「良心的」になれない時

自分が何か不正を犯したことを自分の内に認めるのは「良心」という意味に近づく。不正を犯した人はそれについて知らないはずはないのに、何ら良心の呵責を感じていないように見える人がいるのはなぜなのか。

まず、そのような人は自分がしていることが「悪」であることを知らないのである。ギリシア語の「善」「悪」には道徳的な意味はなく、それぞれ「ためになる」「ためにならない」という意味である。悪事が自分のためにならないことを知っているのであれば、悪事に手を染めたりしないはずだが、不正を犯していても何ら恥じることのない人にとっては、不正こそ善なのである。

それでも、自分のしたことを隠すようになるのは、悪であることを認めたということである。

次に、知る自己と知られる自己との間に何ら乖離がなく、自分が完全な知者であり、正義の人であると思っていれば、自分を否定的に見ないだろう。

また、他の人と同じ価値観を持っていれば、自分を厳しく批判することはないだろうが、他の多くの人が満足し当然だと思っている常識を自明のものとして無批判に受け入れない人は、自分が正しいことを確信し、良心に恥じるところがないので批判されることを恐れない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千万人と雖(いえど)も吾往(われゆ)かん」(『孟子』)と思うだろう。

しかし、多くの人は現状の自分に足りないところがあるとは思わず、皆と同じように考え、行動することに満足する。

問題は、良心の声は小さく、大きな他人の声にかき消されてしまうことである。あらゆるところから押し寄せる意見や考えに長く晒されていると、自分で考えているはずがそうではないことがある。

だから、フロム(※3)は良心の声を聞くためには孤独でなければならないというのである(Man for Himself)。

※3 エーリッヒ・フロム(1900 〜1980 年)。ドイツ出身の社会心理学者、精神分析学者。著書に『自由からの逃走』などがある。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2022年11月号に掲載の情報です。

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