「夫婦ゲンカで夫が自殺」司法解剖医が見た子どもの独立後に起こる夫婦の悲しい別れ

「私はどうやって死ぬんだろう...?」年齢を重ねるごとに、輪郭を濃くする答えのない疑問。もちろん答えはわかりませんが、これまで約3000もの遺体と対峙してきた法医解剖医・西尾 元さんは、「どのような死を迎えるかは、どのように生きたかと密接につながっている」と言います。そこで、西尾さんの新刊『女性の死に方』(双葉社)から、女性の死の原因と背景について連載形式でお届けします。老いや貧困、孤独など、時には残酷な現実を突き付ける「死に方」は、あなたの「生き方」を充実させるヒントになるかもしれません。

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妻との口論の末に橋から海に飛び込んだ夫/男性55歳 亡くなった場所:海

「どこにいるの?」
「言いすぎたわ。本当にごめんなさい」
「帰ってきて。もう怒ったりしないから」

スマートフォンの画面には、大量の着信履歴と共に、妻からのメッセージがいくつも並んでいる。

だが、江田隆さん(仮名・55歳)がそのメッセージを読むことはなかった――。

きっかけは、些細な言い争いだった。

意見が食い違い、どちらも意地を張ってしまっただけだろう。

ただ、その日の夜は、江田さんも仕事で疲れていたのか、思わず妻の知子さん(仮名・53歳)に怒鳴り声を上げてしまった。

夫婦には子供が2人いたが、就職し、相次いで独立したという。

ふたり暮らしとなってからは夫婦の会話は減り、家事は知子さんに任せきりだった。

彼女もまた、そんな毎日に少しずつ不満を溜め込んでいたのだろう。

夫婦ゲンカの末に、江田さんは家を飛び出した。

最初は知子さんも、近所を散歩して、頭を冷やしたらすぐに帰ってくるだろうと思っていた。

ところが、「俺がいなくなれば、おまえも楽になるだろう」というメッセージが届いたのを最後に、夫とまったく連絡が取れなくなってしまった。

不安を感じた知子さんはすぐに警察に通報したが、江田さんが発見されたのは数日後のことだった。

彼は海岸でずぶ濡れ姿の遺体として見つかった。

遺体発見現場から3キロ手前の橋の上に、彼のスマートフォンや財布の入ったカバンが置いてあり、そこから飛び込んだのではないかと推測された。

場合によっては、何者かによって殺害され、自殺を装うために橋の上に江田さんの荷物を残したのかもしれない。

殺人の可能性も否定しきれないため、私たちのもとに遺体が届いた。

江田さんの胸部を開けてすぐ、溺死でなかったことがわかった。

肺という臓器は、肋骨と横隔膜とに閉じられた胸腔という空間に入っている。

この空間を広げることによって、鼻と口から空気を取り込むのだ。

ご存じの通り、肺のもっとも重要な役割は、全身に酸素を運び、二酸化炭素を体外へ排出することである。

解剖する際、その肺が大きく膨らんでいることがある。

その際、私たちは真っ先に2つの可能性を思い浮かべる。

ひとつは気管支喘息で亡くなった場合、もうひとつは溺死した場合だ。

気管支喘息の人は、気管支内部が炎症を起こして狭くなるため、肺の中の空気を出すことが困難になる。

発作で亡くなると、吐き出せなくなった空気で肺が膨らんでしまう。

一方、溺死の場合、本来なら空気が入るべき肺に水が流れ込み、窒息死する。

この時も、水で肺がパンパンになるわけではなく、空気で膨らんでしまう。

飲み込んだ水の勢いによって、もともと取り入れていた空気が肺の奥のほうへと押し込まれ、吐き出せなくなってしまうのだ。

肺の表面を指で押さえると、空気がぷくぷくと動くのがわかる。

しかし、江田さんの肺は、膨らむどころか、小さくなってしまっていた。

これは溺死ではないことを示していた。

肺を取り囲んでいる胸腔を見ると、壁が真っ黒になっている。

大量出血の痕だ。

原因を探るうちに、胸郭(胸の骨格)の背中側に異変が見つかった。

背中が何かと強くぶつかったのか、肋骨が何本も骨折してしまっていたのだ。

しかし、背中の表面を確認しても、どこにも傷が見当たらない。

江田さんが飛び込んだ場所は、海をまたぐ形でかかった海岸線の大きな橋の上だった。

もっとも高いところは橋の上から海面まで約30メートル。

落下時間は数秒足らずだ。

背中が海面に強くぶつかった際、肋骨が何本も骨折したに違いない。

平らな海面にぶつかったのであれば、背中の表面に傷ができていないのも説明がつく。

溺死でなかったので、少なくとも落下している最中、彼は生きていたことになる。

死んだあとに骨折をしても、出血は起こらない。

海面にぶつかった際には生きていたからこそ、骨折後すぐ多量出血し、亡くなった。

海の水を飲み込んだ様子はなく、海面にぶつかってから亡くなるまで、一瞬だったはずだ。

江田さんはさほど苦しまずに生を終えたことだろう。

死因は、「胸郭の肋骨骨折による失血死」と診断した。

始まりは夫婦ゲンカだったはずが、最後は夫の死で幕を閉じた。

夫婦ゲンカが原因で死を選ぶのは決まって男性ばかりという現実/死因:胸郭の肋骨骨折による失血死

法医学でできることは"死因を突き止めるまで"だ。

江田さんの場合も、自ら海に飛び込んだ自殺なのか、誰かに突き落とされた他殺なのか、その判断は警察に委ねられた。

警察はその後、夫婦ゲンカの経緯や江田さんと知子さんの仲をいろいろと調べた。

結果、この一件は「自殺」と結論付けられた。

決め手となったのはなんだったのか、詳細は知りえない。

しかし、後日担当の警察官は、気になることを口にした。

「ご夫婦は、夜の生活がうまくいっていなかったようです。最近は、奥さんが旦那さんを拒んでいたみたいで、夫婦の関係が冷め切っていたとか」

50歳を過ぎた男性が、妻に性交渉を拒まれて深く傷つく。

そして、夫婦ゲンカをきっかけに衝動的に海に飛び込んだ。

そんなことがあるのだろうか、と思ったが、夫婦のことは当人同士にしかわからない。

もしかしたら、妻だけが彼の心のよりどころで、その人に拒否されては生きる意味を見出せない、と自暴自棄になってしまった可能性はある。

この数年前にも、自分の借金が原因で妻と口論になり、自殺をした30代の男性がいた。

彼は起業するために妻に内緒で多額の金を借りていたが、事業は失敗に終わったようだ。

首が回らなくなった男性がすべてを妻に話したところ、責め立てられた。

もちろん、悪いのは男性だ。

ただ、借金のことを妻に言い出しにくかった気持ちも理解できる。

何もギャンブルにつぎ込んだわけではない。

起業して成功すれば、妻を幸せにしてやれるという思いもあっただろう。

決心して告白したが、待っていたのは激しい妻の怒りだったのだ。

女性からは無駄なものにも見えるかもしれないが、たいていの男にはプライドがある。

「自分は妻には必要とされている」という自尊心が傷ついた時、彼の中で何かが起きた。

「自業自得だ。おまえの目の前からいなくなってやるからな」

そう言い残して、彼は処方されていた抗うつ剤を多量に服用し、自殺してしまった。

金策に追われるうちに、追い込まれた彼はうつ病を発症していたそうだ。

江田さんの例も、この男性の例も、冷静になって考えれば、何も死ぬことはなかった。

しかし、当人からすると死を決心するほどの大問題だった。

公園のプレハブ小屋で凍死した夫

解剖をする時、夫婦ゲンカが原因で亡くなったとわかっているケースは少ない。

こうした類いの遺体は、亡くなってすぐに解剖台に運ばれてくることが多く、警察の情報も少ない。

ただ、ひとついえるのは、今のところ私の法医学教室では、夫婦ゲンカが原因で亡くなったと思われる遺体は夫ばかりで、妻はひとりもいないということだ。

自殺ではないが、口論の末に妻に家から締め出され、公園の掃除用具を入れるプレハブ小屋の中で凍死した40代男性もいた。

もちろん、2月の寒空の中、妻が夫を家から叩き出すには相応な理由があったはずだ。

いずれにしても、解剖台の上だけでいえば、夫婦ゲンカにおける妻の勝率は100%である。

私自身もそうであるが、男というのは、実に繊細な生き物だ。

一方で、プライドが高い。

それを木端微塵にやられると、勝手に傷つき、自分を見失ってしまう。

女性からすれば、「なぜこんなことで......」と驚き、呆れる気持ちになっても無理はないと思う。

それでも、現実問題として、女性と衝突して死を選ぶ男たちがいる。

身近な人の自殺という悲劇を起こさないよう、女性の皆さんには、ひとつお願いしておきたいことがある。

あまり強く正論をぶつけてやっつけてしまうと、男はすぐに傷つき、死すら考えてしまう者もいる。

皆さんの心的負担を減らすためにも、どうか、少しだけ逃げ道を残してあげてほしい。

※本エピソードは、著者が現役の法医解剖医として守秘義務があるため、亡くなった方のプライバシーに配慮し、年齢や家族構成、地域など、一部事実を変えて記しています。

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71EQJ5hsF+L (1).jpg生活スタイルの違いや死に方の違いなど、現役の法医解剖医が対峙して感じた「女性の死」を6章にわたって考察しています

 

西尾 元(にしお・はじめ)

1962年、大阪府生まれ。兵庫医科大学法医学講座主任教授、法医解剖医。香川医科大学(現香川大学)医学部卒業後、同大学院、大阪医科大学法医学教室を経て、2009年より現職。兵庫県内の阪神間における6市1町の法医解剖を担当している。突然死に関する論文をはじめ、法医学の現場から臨床医学へのアプローチも行っている。

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『女性の死に方』

(西尾 元/双葉社)

およそ3000もの遺体と向き合ってきた法医解剖医が、普通ではない「異常死」を迎えた遺体の死の原因と背景を考察。対峙したからこそ見えたのは、「死に方」は「生き方」で決まるということ。女性のライフスタイルが多様化する現代に増えるであろう「死に方の変化」にも言及する、“最期”の参考書です。

※この記事は『女性の死に方』(西尾 元/双葉社)からの抜粋です。

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