「私はどうやって死ぬんだろう...?」年齢を重ねるごとに、輪郭を濃くする答えのない疑問。もちろん答えはわかりませんが、これまで約3000もの遺体と対峙してきた法医解剖医・西尾 元さんは、「どのような死を迎えるかは、どのように生きたかと密接につながっている」と言います。そこで、西尾さんの新刊『女性の死に方』(双葉社)から、女性の死の原因と背景について連載形式でお届けします。老いや貧困、孤独など、時には残酷な現実を突き付ける「死に方」は、あなたの「生き方」を充実させるヒントになるかもしれません。
休日出勤中の職場で倒れていたキャリアウーマン/女性45歳 亡くなった場所:休日のオフィス
12月のある月曜日の朝。
最初に職場に出勤してきた人が倒れている女性を見つけた。
女性はオフィスの床で、すでに冷たくなっていたという。
亡くなったのは川井恵さん(仮名)。45歳になったばかりの、独身の女性だ。
年末が迫り、多忙を極めていた彼女は、週末に休日出勤をして、ひとりで仕事をしていた際になんらかのアクシデントに襲われた。
警察は見つかった現場の様子や、遺体の外傷などを調べた結果、犯罪に巻き込まれた可能性は低いだろうと判断した。
部下には慕われ、上司からも信頼される、人間関係が良好な女性だったそうだ。
ただ、突然職場で亡くなった理由がわからない。
解剖を決めた警察から、私のもとにメールで連絡が入った。
中肉中背、と女性に対して言うのは失礼だろうか。身長155センチ程度で、ちょうど平均的な体型だった。
キャリアウーマンらしく、手入れの行き届いた髪の毛と控えめなネイルに少々安心感を覚えた。
解剖台の上で出会う女性たちの中には、貧困の末に法医学教室に運ばれてくる方も少なくない。
手入れが行き届いた、「女性らしい遺体」を目にすることのほうが珍しいかもしれない。
事情はさまざまだろうが、少なくとも川井さんは、見た目に気を使う余裕のある生活を送れていた様子が感じられた。
解剖を始めると、死因はすぐにわかった。
「くも膜下出血」だった。
脳の表面はくも膜という透明な一枚の膜で覆われている。この膜の下に出血が起こるのがくも膜下出血だ。
くも膜下出血は、頭を何かにぶつけたり、殴られたりして起こることもありえる。
だが、川井さんにはそういった外傷は見当たらなかった。
彼女の身に起きたのは、脳動脈瘤の破裂だった。
脳の底にある動脈に生まれた時から異常があって、脳動脈瘤ができる。
脳動脈瘤とは、脳の血管(動脈)にできる膨らみで、その壁は普通の動脈に比べて破れやすい。
脳動脈瘤は1・5~5%程度の人が持ち、そのうち0.5~3%が破れて症状を引き起こすといわれている。
それはたいてい突然に起こり、誰も予測ができない。
ちなみに、くも膜下出血は働き盛りのピークを迎える40歳を過ぎてから発症する人が多く、川井さんはちょうどその年齢に差しかかったところだった。
ただ、彼女の場合、"突然"のくも膜下出血ではなかった可能性が高い。
法医解剖のルールとして、たとえ最初に解剖した部分で"答え"がわかったとしても、決められた手順通りに各臓器すべての解剖を行う。
まずは皮下組織(皮膚の真皮の下部にある結合組織)を切り開き、脳や肺、心臓、胃、肝臓、腸など、すべてを取り出して、確認する必要があるのだ。
川井さんの場合も、早々に死因はくも膜下出血であるとわかったが、ほかの臓器の解剖も行った。
すると、彼女の体にある異変が起きていた。
それは、長きにわたり、くも膜下出血の"危険因子"を抱えていた可能性があるものだった。
腎臓にくも膜下出血の"危険因子"が隠されていることがある/死因:くも膜下出血(多発性嚢胞腎)
日本人の死因のうち、「脳血管疾患」は、7.9%(10万8165人)を占め、「悪性新生物(がん)」「心疾患」「老衰」に続いて4番目に多い(厚生労働省「平成30年(2018)人口動態統計月報年計(概数)の概況」)。
さらに同統計によると、脳血管疾患のうち、死因の上位3つは「脳梗塞」「脳内出血」「くも膜下出血」の順となっている。
くも膜下出血は、脳動脈瘤が破裂し、脳を覆うくも膜の下に出血が広がる症状をいう。
脳の神経細胞が壊死する「脳卒中」の一種だ。
年間2万人程度の人がくも膜下出血を発症しているといわれており、すぐに手術ができたとして、元気に社会復帰できる人はその3分の1程度だという。
ただ、後遺症が残ってしまう人が3分の1、残りの3分の1は、そのまま亡くなってしまう。
くも膜下出血を起こした人の20%程度は、脳動脈瘤の再破裂を起こす(多くは最初の破裂から6時間以内)とも指摘されており、そうなると助かる可能性はさらに低くなる。
とにかく発症後できるだけ早くに手術を受けることが重要だ。
川井さんの場合、ひとりで休日に出勤している時に発症してしまった。
もしも近くに誰かいたならば、早い段階で誰かが彼女の異変に気づいていたかもしれない。
倒れた床で、ひとりなす術すべなくもがく姿を想像すると、やるせなさを感じてしまう。
ただ、腎臓に眠っていた"危険因子"にもし川井さんが気づいていたなら、彼女の脳動脈瘤は破裂せずに済んだかもしれない。
彼女の腎臓の見た目は、異常だった。
そこには、直径が1センチほどある小さな袋がたくさんできていたのだ。
人の体には腎臓が2つある。
腎臓にはいくつかの働きがあるが、なかでも一番重要なのは、血液中の不要な成分を尿として排出することだ。
腎臓が悪くなると、排尿に支障をきたす。
尿が出なければ血液に不要な成分が溜まり始めることになる。
当然、無数の袋ができた状態では、腎臓は正常に働くことはできない。
川井さんの体にも、何か症状が出ていたかもしれない。
しかし、彼女の腎臓にはまだ健常な部分も残っていて、病院にかかるという発想が生まれなかった可能性が高い。
警察の話では、川井さんに通院歴はなかった。
この腎臓の病気は「多発性嚢胞腎」と呼ばれている。
「嚢胞」とは袋を意味していて、腎臓に多数の嚢胞ができ、徐々に大きくなることで、腎機能が低下する。
腎機能の低下で尿が出なくなった状態を治療せずに放っておけば、死に至ることもある病気だ。
発症した人の多くは、いずれ人工透析を必要とする。
実は腎機能の低下に伴い、血圧が上昇することがわかっている。
そのため、多発性嚢胞腎の人は高血圧になりやすく、くも膜下出血を発症する可能性が高くなる。
脳卒中の5大リスクとして、「高血圧」「糖尿病」「脂質異常症」「不整脈」「喫煙」が挙げられる。
彼女は病院にはかかっていなかったものの、前の年の会社の健康診断で、高血圧を指摘されていた。
遺伝する嚢胞腎の危険性
もちろん、彼女が亡くなった直接の原因は、脳のくも膜下出血だ。
嚢胞腎が死因ではない。
だが、腎臓の病気が死因にまったく関係がなかったのかというと、そうとは言い切れない。
くも膜下出血を起こす原因には、嚢胞腎が関係していたと考えられるからだ。
死因を調べるという解剖の目的からいえば、彼女の直接死因がくも膜下出血だとわかった時点で、我々の仕事は終わりだ。
しかし、この時はまだやるべきことがあった。
多発性嚢胞腎という病気は、難病指定されている、遺伝性の病気なのだ。
親がこの病気を持っていれば、一定の確率でその子供も同じ病気になる。
500人から1000人を解剖すると、そのうちひとり程度にこの病気が見つかるといわれていて、実際、私もこれまでに5、6人は出会っている。
彼女の場合、独身で子供はいなかったものの、3つ年下の妹がいた。
彼女もまた、知らぬ間に嚢胞腎を発症している可能性がある。
事情を伝え、早急に病院に行くことを勧めた。
高血圧の治療を受ければ、脳の出血は防ぐことはできるし、嚢胞腎も最近では新たな治療法が開発されていると聞く。
川井さんはもうすでに亡くなってしまったが、遺族の人が同じ病気で突然死することは、できることなら避けたい。
遺族にそうした情報の提供を受けたいか希望を聞いた上で、この病気の危険性について伝えることができた。
法医学が、亡くなった人ではなく、生きている人の医療に役立つ場面もあるのだ。
※本エピソードは、著者が現役の法医解剖医として守秘義務があるため、亡くなった方のプライバシーに配慮し、年齢や家族構成、地域など、一部事実を変えて記しています。
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