家事をする間だけ忘れられる...。がんで入院した妻が不在の「寒々しい部屋」/僕のコーチはがんの妻(13)

夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。前回の連載が反響を呼んだ藤井満さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より、笑って泣ける「愛の実話」を、さらに第4章の途中(全6章)まで抜粋してお届けします。

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「おしゃれなものは似合わんし、おっさんくさいのは合いすぎるし、どんな服を着てもパッとせんなあ」と、僕の服を買いに行くたびにため息をついていた= 2016年

香ばしい鶏じゃがでビール。苦しみ忘れる家事の時間

個室から大部屋に移って、妻は笑顔を取りもどした。

見舞いに行くと、病室でこんな会話を交わしたと教えてくれた。

「アイロンやボタン付けをしようと思ったのに、救急車で運ばれちゃった。私が先に死んだら、お父ちゃんパンツ買いに行けるんやろか。サイズMのパンツ買おうとして『ちゃう、あんたはLや』とか天国で思うんやろな」

そう年配の女性が口火を切ると、「娘に下着とか買っておいてあげなきゃ」と、中学生の娘がいる妻と同年代の女性が答える。

妻はすかさず僕のズボンを話題にした。

「去年の冬のユニクロのズボン、けちって買わなかったのを後悔してる。来年すり切れたのをはくことになるんちゃうかなって。あの世からポチッとできたらいいんやけど......」

大阪城を見下ろす絶景の病棟サロンで、そんな会話を再現してから妻は付け加えた。

「私は、大志とか野望とかないから、思い残すことってしょぼいことばかりや。あとはバイオリンでヴィターリのシャコンヌをやりたいくらいかなあ」

突然テレビから「安倍政権はステージ4だ」という声が聞こえてきた。

「ステージ4って末期なんやな」と妻。

「客観的にはきびしいのはわかってるけど、痛みがおさまると、なんとかなるんちゃうかなあって期待しちゃうんだよね」

僕も期待したい。

でも信じた後に裏切られる場面を考えると怖い。

だから「せやなぁ。ほんまになあ」としか返せない。

「で、きょうのごはんはどうする?」妻は話題を変えた。

「たまねぎとにんじんとキャベツとじゃがいもがあるからポトフにする」と答えると、

「いつも同じやな。鶏肉の肉じゃがでもつくってみ。それと、副菜も必ずつくること」

そう言ってレシピを書いてくれた。

夜9時すぎ、「おやすみ」と言って13階の病棟を後にする。

エレベーターに乗るまで妻は病棟の出口で見送り、振り返るたびに手を振る。

毎晩の別れが永遠の別れのように思える。

帰宅後「鶏じゃが」に取りかかろうとしたら「もっとシンプルな作り方にしたぞ」と、新たなレシピをメールで送ってきた。

味つけは塩コショウだけなのに、焦げ目をつけた鶏肉は香ばしくていもはホクホク。

ビールにぴったりの一品になった。

イシルを入れたらさらにおいしくなったかもしれない。

副菜は、小松菜をザクザク切って、小型フライパンに湯を沸かして、くきの部分から順番にさっとゆで、大根おろしと納豆をのせた。

「どや、たいしたもんやろ」と写真を送ると、

「ポン酢でもうまいぞ。のりを入れたらボリュームが出るやろ」

のりか、思いつきもしなかった。

食べ終わると、さらにメールが届いた。

「キャベツを無理に使い切ってないやろな?2、3枚をざくざく切って、小型フライパンにしいて、卵やソーセージをのせて、少し水を入れて蒸し煮にすれば立派な朝ごはんや。材料を何もかも使い切ろうとするな」

料理や洗濯をする30分間だけは無心に手を動かすから、部屋の寒々しさを忘れられる。

「私なんか、思い残すことってしょぼいことばかりや」と妻は言うけれど、日々の暮らしに集中することで、苦しみを少しだけ脇に置いておくことができるのかもしれない。

食後の片付けが終わると、また冷気がじんわり体をつつむのだけど。

【次のエピソード】「家に戻って、1年でも普段の暮らしを...」そう望む妻に告げられた「余命宣告」/僕のコーチはがんの妻(14)

【最初から読む】「イボやなくてメラノーマ(悪性黒色腫)やて」妻から届いた1通のメール/僕のコーチはがんの妻(1)

【まとめ読み】「僕のコーチはがんの妻」記事リスト

イラスト/藤井玲子

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6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録

 

藤井満(ふじい・みつる)
1966年、東京都葛飾区生まれ。1990年朝日新聞に入社。静岡・愛媛・京都・大阪・島根・石川・和歌山・富山に勤務し、2020年1月に退社。著書に『北陸の海辺自転車紀行』(2016年、あっぷる出版社)、『能登の里人ものがたり』(2015年、アットワークス)、『石鎚を守った男』(2006年、創風社出版)など。

藤井玲子(ふじい・れいこ)
1967年、兵庫県生まれ。商社OL時代にマウスを使った落書きを覚える。1999年に藤井満と結婚し、退職後、落書きをのせるホームページ「週刊レイザル新聞」を創刊。2018年永眠。

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『僕のコーチはがんの妻』

(藤井満/KADOKAWA)

50代夫婦、子どものいない2人暮らし。妻が末期がんになったら、家事も料理もできない夫はどう生きればよいのか? 妻がメラノーマ(悪性黒色腫)というがんであると診断されたのをきっかけに、著者は夫婦2人で料理を猛特訓。それは、妻からの最後の贈り物でした。朝日新聞デジタルの連載で33万人が感動した、大切な人と読みたい家族の愛の実話です。

※この記事は『僕のコーチはがんの妻』(藤井満/KADOKAWA) からの抜粋です。

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