夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。前回の連載が反響を呼んだ藤井満さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より、笑って泣ける「愛の実話」を、さらに第4章の途中(全6章)まで抜粋してお届けします。
「おしゃれなものは似合わんし、おっさんくさいのは合いすぎるし、どんな服を着てもパッとせんなあ」と、僕の服を買いに行くたびにため息をついていた= 2016年
香ばしい鶏じゃがでビール。苦しみ忘れる家事の時間
個室から大部屋に移って、妻は笑顔を取りもどした。
見舞いに行くと、病室でこんな会話を交わしたと教えてくれた。
「アイロンやボタン付けをしようと思ったのに、救急車で運ばれちゃった。私が先に死んだら、お父ちゃんパンツ買いに行けるんやろか。サイズMのパンツ買おうとして『ちゃう、あんたはLや』とか天国で思うんやろな」
そう年配の女性が口火を切ると、「娘に下着とか買っておいてあげなきゃ」と、中学生の娘がいる妻と同年代の女性が答える。
妻はすかさず僕のズボンを話題にした。
「去年の冬のユニクロのズボン、けちって買わなかったのを後悔してる。来年すり切れたのをはくことになるんちゃうかなって。あの世からポチッとできたらいいんやけど......」
大阪城を見下ろす絶景の病棟サロンで、そんな会話を再現してから妻は付け加えた。
「私は、大志とか野望とかないから、思い残すことってしょぼいことばかりや。あとはバイオリンでヴィターリのシャコンヌをやりたいくらいかなあ」
突然テレビから「安倍政権はステージ4だ」という声が聞こえてきた。
「ステージ4って末期なんやな」と妻。
「客観的にはきびしいのはわかってるけど、痛みがおさまると、なんとかなるんちゃうかなあって期待しちゃうんだよね」
僕も期待したい。
でも信じた後に裏切られる場面を考えると怖い。
だから「せやなぁ。ほんまになあ」としか返せない。
「で、きょうのごはんはどうする?」妻は話題を変えた。
「たまねぎとにんじんとキャベツとじゃがいもがあるからポトフにする」と答えると、
「いつも同じやな。鶏肉の肉じゃがでもつくってみ。それと、副菜も必ずつくること」
そう言ってレシピを書いてくれた。
夜9時すぎ、「おやすみ」と言って13階の病棟を後にする。
エレベーターに乗るまで妻は病棟の出口で見送り、振り返るたびに手を振る。
毎晩の別れが永遠の別れのように思える。
帰宅後「鶏じゃが」に取りかかろうとしたら「もっとシンプルな作り方にしたぞ」と、新たなレシピをメールで送ってきた。
味つけは塩コショウだけなのに、焦げ目をつけた鶏肉は香ばしくていもはホクホク。
ビールにぴったりの一品になった。
イシルを入れたらさらにおいしくなったかもしれない。
副菜は、小松菜をザクザク切って、小型フライパンに湯を沸かして、くきの部分から順番にさっとゆで、大根おろしと納豆をのせた。
「どや、たいしたもんやろ」と写真を送ると、
「ポン酢でもうまいぞ。のりを入れたらボリュームが出るやろ」
のりか、思いつきもしなかった。
食べ終わると、さらにメールが届いた。
「キャベツを無理に使い切ってないやろな?2、3枚をざくざく切って、小型フライパンにしいて、卵やソーセージをのせて、少し水を入れて蒸し煮にすれば立派な朝ごはんや。材料を何もかも使い切ろうとするな」
料理や洗濯をする30分間だけは無心に手を動かすから、部屋の寒々しさを忘れられる。
「私なんか、思い残すことってしょぼいことばかりや」と妻は言うけれど、日々の暮らしに集中することで、苦しみを少しだけ脇に置いておくことができるのかもしれない。
食後の片付けが終わると、また冷気がじんわり体をつつむのだけど。
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イラスト/藤井玲子
6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録