<この体験記を書いた人>
ペンネーム:けんけん
性別:女
年齢:50
プロフィール:実母(79)息子(12)の三人で、ちょっと田舎に暮らしています。
父(享年76歳)が亡くなったのは今から5年前のことです。
父はその4年前の冬にトイレで脳出血になり、左半身麻痺になりました。
病院からリハビリテーション病院へ転院し、リハビリを頑張っていたのですが、血尿があり検査すると尿管がんが発覚。
再度病院に戻り手術をし、そのまま2年近く抗がん剤治療を行いました。
その甲斐あってがんもよくなり、抗がん剤治療はやめたのですが、1年後の検査で再発。
父は治療を断念し、それからは自宅で過ごしていました。
やがて食事もあまり摂れなくなり、亡くなる前は病院からパウチの栄養食を出してもらっていました。
このように晩年は満身創痍だった父ですが、金曜日に亡くなるまでの約1週間は、まるで準備していたかのように、心残りを晴らすようなさまざまなことがありました。
父には姉(当時79歳)がいるのですが、父が亡くなる1カ月ほど前、電話で話した父の声が元気がないと言って、他の兄弟に連絡。
亡くなる前の週の土曜日に、兄弟夫婦が集まることができました。
全員が集まるのは数年ぶりだったそうです。
昼頃から夕方遅くまで父を交えて話に花を咲かせていて、それはとてもとても幸せな光景でした。
日曜日には、以前から登録していた葬儀社との打ち合わせがあり、母(現在79歳)と2人でお葬式の予算についてはっきりさせることができました。
父も自分のお葬式を心配していたので、安心したようです。
そして、水曜日は私の息子の7歳の誕生日。
その日は、いつもほぼ寝て過ごしていた父がベッドに座れるくらい元気がありました。
みんなで誕生日の歌を歌いお祝いをして、父もケーキを少し食べて、母が呑んでいた発泡酒を「俺にも少しくれ」と言いコップ半分ほど飲み干しました。
さらに「もう少しくれ」と言うので、母は「私の分がなくなる~」と冗談を言いながら嬉しそうにコップに注いでいました。
木曜の午後は訪問リハビリの日でした。
理学療法士の先生が来られたのですが、「今日は珍しく嫌々されていました」と言って帰られました。
いつもの父と違う? と不安がよぎりました。
それは的中して、夕方になると父の体調が悪化。
「病院へ行こう」というのですが「明日に行く」と父。
しかし、母は「車まで歩いてもらわないと抱えて乗せられへんから、行ってみような」と言い、なんとか病院へ向かうことができました。
でも、病院に着くとその日の午後は休診。
守衛さんが「診察はできません」と言います。
何とか看てほしいと粘っているところに、タイミングよく訪問リハビリの理学療法士の先生が事務所から出てこられたのです。
先生に「どうも調子が悪いようなので看てほしい」と伝えると、急きょ診察してもらえることになり、そのまま入院することになりました。
そして翌日、金曜日の朝、お見舞いに行くとベッドの上で目を見開き、大イビキをかいている父。
声を掛けても反応がありません。
意識不明の状態だったので、慌てて看護師さんを呼びに行くと「1時間前ぐらいにバイタルを取りに行くと、ご自分で水を飲まれてましたよ!」と大慌て。
すぐに集中治療室へ移動し、「会わせたい人を呼んでください」と言われ兄(現在53歳)と甥(現在21歳)に連絡。
小学校にいた息子に帰る用意をしてもらい迎えに走りました。
息子が病室に着いて父の手を握りながら「じいちゃん死んだらヤダ!」と大きな声で言うと、意識不明の父の目から涙が流れていました。
父のベッドの傍で息子が小学校から借りてきた『昔の生活』図鑑を見ながら、父に「これはじいちゃんの時代の物やんな」と話しかけると「うーうー」と何か返事をしていました。
そして、その日の夜10時20分、父は苦しまずに亡くなりました。
綺麗に死に化粧をしていただいたので、まるで寝ているような顔でした。
最後の1週間で、父は会いたい人にも会え、お葬式についても憂いを残すことなく、家族に囲まれて逝きました。
きちんとしていた父だから、亡くなる時も周囲に面倒をかけず、思い残すことなく逝けたのでしょう。
ありがとう、お父さん。
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