子どもと離れて一人暮らしを始めた今、じわじわと身に沁みる「亡き母の孤独」/chii

9年前に、モラハラDV夫の元から、息子と逃げ出して二人で暮らしていた私たちですが、おととしの8月にお互い一人暮らしをスタートさせました。

【前回】「母さん助けて」DV夫から逃げて母子の「共依存生活」がスタート。私は息子を縛り付けていた...

子どもと離れて一人暮らしを始めた今、じわじわと身に沁みる「亡き母の孤独」/chii pixta_48074169_S.jpg

バタバタとして忙しい時は寂しさは感じなかったのですが、少し落ち着いてきた9月ごろから寂しいと感じるようになりました。

とくにご飯を食べる時です。

自分のためだけに作るご飯はつい手抜きとなってしまい、美味しく感じません。

というより、その時は何を食べても味がしませんでした。

日にち薬という言葉があるように、時間の経過と共に一人になった寂しさにはなれていくだろうと思っていたのですが。

その9月に、施設に入所していた母が食事をとることができなくなり、私たち兄妹は、看取りという選択をすることになったのです。

日に日に弱っていく母でしたが、コロナ禍であったために面会は制限されていました。

一週間に一組だけしか面会できないと言われ、私たち家族は順番に母に会いにいくことにしたのです。

最初は娘と孫と会いに行ったのですが、母は私の娘のことをわからなくなっていました。

どなた?誰の子?と怪訝そうな顔をしながらも、かわいいね~と孫の頭をなでてくれました。

最後に母に会いに行ったのは、亡くなる一週間前に、息子と。

残念ながら、息子のことも誰だかわからなかったようです。

食事をとれなくなって2カ月ほどたっていたので、かなり弱っていた母でしたが、施設の決まりによりロビーで面会しました。

もう目もやっとあけている状態で苦しそうな母に、私は育ててくれてありがとうと伝えました。

亡くなる前日、今度は妹夫婦が会いに行ったのですが、この時も電動車いすにのせられ、ロビーで面会したそうです。

ある職員の方は、もう重篤な状態であるから、部屋で面会しても大丈夫だと言われていたのに、現場の介護ヘルパーさんは決まりだからと言い張り、ロビーに連れてきたそうです。

そんな施設の対応に不信感をもっていた私です。

その日、血圧はどんどん低下し、計測できないほどになっていたのです。

翌朝、母が危篤だと連絡があり、あわてて準備をしていると、15分後くらいに亡くなったと。

兄夫婦も妹夫婦も、臨終には間に合わずに、母は一人で旅立ってしまいました。

認知症だった母は、亡くなる1カ月くらい前に急にしっかりして、昔の思い出話をたくさんしたそうです。

子どもたちには良くしてもらった、感謝していると何度も言ったと聞いて、涙がでました。

介護の押し付け合い、施設に入れる罪悪感、最後の一年は入退院を繰り返しても面会ができなかった罪悪感など、いろいろあったからこそ、母の言葉に安堵したのです。

母が亡くなった日、葬儀の手配をした後、私はワンルームに帰宅して泣きました。

その時が、一番に孤独を感じた日でした。

今も、ふと寂しくなることがあり、母の気持ちがようやくわかるようになりました。

兄夫婦と二世帯住宅で暮らしながらも、誰とも話さない日が何日もあったそうです。

家族と暮らしていても孤独だったのです。

そして施設に入ってからも、友達はできたようですが、ほぼ部屋で一人で過ごす毎日が、どれだけ寂しかったことか。

もっと会いに行けばよかったと、今更ながら後悔しています。

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
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chii

モラハラDV夫の家を飛び出し、7年目のchiiと申します。離婚には応じてもらえずに、現在も熟年別居中です。つい最近、共に暮らしていた大学生の息子が自立をして一人暮らしになりました。某スーパーでサービスカウンターの仕事をしています。パートなので生活は楽ではありませんが、結婚生活が地獄だったからこそ、現在の一人の時間に幸せを感じています。別居直後から書き出した「60代小さく暮らす」お一人様の老後がテーマの「お茶のいっぷく」を書いています。

※毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

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