愛には心の結びつきと、魂の交歓が必要です。けれども、こうして恋い慕う気持ちは、ただ、わたしが今も心からあの人を愛しているという事実を示しているにすぎません。たとえば、わたしが孫に会いたいと強く思うときと同じで(孫たちの生活は10代特有の変化に富んでいて、年老いたお祖母ちゃんなんて眼中にありません)、それはただ、わたしのほうが一方的に愛している、それだけです。そしてわたしは、自分が誰かを愛していると教えてくれるこの喪失感のほうを選びます。

人生は常に喪失感に彩られているものです。何か大切なものを見つけたその瞬間から、人はそれを失うことを恐れ始めます。それでいて、人生とは喪失そのものなのです。生まれたときに、胎内のあの安全で温もりあふれる暗闇を奪われ、眩しい光と騒音に満ちた世界にはじき出され、安らぎは打ち砕かれます。そこからすべてが始まります。

幼年期を失い、汚れなき心を失い、友人や大切なペットを失い、きょうだいを、母を、父を失い、投資した財産を失います。揺りかごがあって、居心地のいいスペースをいくつも備えた、床板の軋むわが家を失い、仕事と結婚生活を失い、子どもを失い、夢を失い、自尊心を繰り返し失い続けます。そして死によって自らの命を失うその瞬間が、常に頭上に影のように覆いかぶさっています。それは(わたしたちにとって)世界の終わる瞬間なのです。

まったく愛よりも楽しく、強く、また高く、あるいは広く、またよろこばしく、満ちあふれ立ち優るものは、天にも地にも見出せない。

――トマス・ア・ケンピス(15世紀の思想家)『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』(訳注:永野藤夫・呉茂一訳『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』、講談社学術文庫、2019年 より引用)

喪失そのものは悪いことではありません。大切なのはどう受け止めるかです。エレノア、わたしが言いたいのは、あらゆるものが"仮のもの"だとわかっているかどうかなんです。わたしがまとっているこの身体でさえ、例外ではありません。これは借りものなんです。

わたしはスーツケースのような一時的な容れ物の中で暮らしています。何十年も使い続ければボロボロになって、もう暮らしていられなくなります。そうなったら、わたしはこの身体から抜け出します。そよ風にはためく白いシャツのように、わたしはふわりと身をひるがえし、次の場所へと向かうんです。

その気になれば、新しい身体はいつだって借りられるんだって聞いていますから。