最愛の人に遺すものは「思い出」と「お金のこと」だけでいい/大人の男と女のつきあい方

pixta_38162096_S.jpg40歳を過ぎ、しかも家庭を持つ男の恋愛は難しいのが現実。しかし、年齢を重ねても、たとえ結婚していても異性と付き合うことで人間は磨かれる、と著者は考えます。

本書『大人の「男と女」のつきあい方』で、成熟した大人の男と女が品格を忘れず愉しくつきあうための知恵を学びませんか?

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もっともスマートな遺言の形は何か?

終生を誓い合った夫婦、あるいは夫婦同然の男女でも、いずれ別れは訪れる。夫婦生活の晩年に予想もしなかったいさかいで生き別れになることもあるし、いずれかの死によって別れは必ずやってくる。

最近、新聞や雑誌などで、自分が死んだあとに愛する家族への思いを文章にして残すことを推奨する評論家のコメントなどをよく目にする。また、そうしたノートの書き方を教える実用書もある。
そんな行為は単純にとらえれば、美しい家族への思いやり、愛情の表れのように考えてしまいがちだが、私はこういう別れの作法には、いささか異論がある。

いまのところ、私は来世というものの存在、あるいは復活という考え方を信じていない。死んでしまえば、無機物の灰になってしまうだけだと考えている。
「人間、死んだらゴミになる」といった人もいる。死ねば跡形もなくなる身でありながら、あとに残る家族や知人に、ああだ、こうだと細々とした自分の思いをわざわざ残すことは、生き残った家族や知人に対する越権行為のように思えるのだ。

自分がどんなことを考えているか、家族に対してどんな思いでいるかなど、もしどうしても伝えたいことがあるならば、生きているうちに直接伝えておけばいい。わざわざ、文章にしたためてあとで読んでもらう必要などどこにもない。
文章は死後も残る。生き残った家族は、折に触れて読み返すかもしれない。そのたびに、いろいろな思いを抱き「ああすればよかった、こうすればよかった」と呵責(かしゃく)の念にとらわれるだろう。残された文章だけが、書き手亡きあとも生き続けてしまう。

そもそも、文章などなくても、最愛の人を亡くした家族は、故人の思い出を反芻(はんすう)しながら生きつづける。ビデオなどより写真が残っていたほうがいい。とかく人は過去を美化しがちだ。いまは亡き人の写真を見ながら、「あのときは若かったな」とか、夫婦二人で行った上高地は愉しかったなどの思い出があれば、それで十分ではないか。

そこに別の"データ"など残さなくてもいい。長年連れ添った妻や夫、最愛の伴侶となればなおさらのことだ。二人の歩んできた時間がすべてであって、その時間を「上書き」するのは愚の骨頂ともいえる。

自分の葬俄についても同様だ。
「散骨にしてくれ」密葬にしてくれ」に始まって、人によっては「アイツとコイツには来てもらってもいいが、アイツとコイツには焼香させるな」などと出席者名簿まで決めてしまう人もいる。
私としては、自分の葬儀など家族だけでひっそりとやってくれればいいと思っているが、それを決めるのは残された家族だ。そもそも、葬儀は生き残った人間のためのセレモニーなのである。家族、親戚、故人の縁(ゆかり)の人などが集まり、その人間の死を受け止める手段なのだ。

それより、残された家族に忘れずに伝えておかなければならないことが、一つだけある。それは不動産や生命保険など、お金に関することだ。こればかりはしっかりと、きちんとメモして残しておきたい。どこの銀行、どこの証券会社などにどのくらいお金が残っているか、どの保険会社にどれくらいの生命保険をかけているかなどは、しっかり残しておく。

もっと大切なのは家族の知らないヘソクリである。これは絶対に忘れてはいけない。どの金融機関でどう引き出すか、暗証番号をはじめ各金融機関に登録した印鑑、株券や債券など有価証券の所在場所、扱い方法はもちろん、現金で貯め込んだヘソクリの隠し場所なども含まれる。

各家庭の各人のヘソクリが実はバカにならないのだ。ヘソクリがそのままになってしまうと、そのお金はやがて銀行のものになってしまう。その金額は日本のすべての銀行を合わせると、六兆円とも七兆円ともいわれている。銀行には何の義理もないのだから、もったいない話だ。銀行の埋蔵金にすることはない。くれぐれもご注意のほどを。

「記憶してください。私はこんなふうに生きてきたのです」
大文豪・夏目漱石の名作『心』で、友人の恋する女性を抜け駆けで奪って妻としたことを悩みつづけた主人公が、自分を慕う後輩に残す言葉だ。ただし、これは小説のなかだけのこと。

「お金はこんなふうに残っています」
現実の人生で残すことは、これだけでいいのではないか。
生きている間に充実した関係を結んでいた男女であれば、どちらかが先に旅立ったとしても、あり余るほどの思い出が相手のなかに残されているはずだ。あえて、遺言のような形で、自分が不在である相手の時間にまで影響を与えてもしかたがない。感傷的な書き置きを残すなどは慎んだほうがいい。

どんなに愛し合った仲であっても、自分がいなくなってもなお、相手の時間を専有することはできないのだ。思い出せるときに思い出してもらえばいい。それが相手に対する本当の思いやりではないだろうか。

立つ鳥跡を濁さず――。最愛の妻や伴侶には、まだ人生が残されている。自分の死を悲しんでもらうのは、せいぜい四九日まででたくさんだろう。余計な遺言は不要と心得るべきだ。

 

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川北義則(かわきた・よしのり)
1935年大阪生まれ。1958年慶應義塾大学経済学部卒業後、東京スポーツ新聞社に入社。文化部長、出版部長を歴任。1977年に退社し、日本クリエート社を設立する。現在、出版プロデューサーとして活躍するとともに、エッセイスト・評論家として、新聞や雑誌などに執筆。講演なども精力的に行なっている。主な著書に『遊びの品格』(KADOKAWA)、『40歳から伸びる人、40歳で止まる人』『男の品格』『人間関係のしきたり』(以上、PHP研究所)など。

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『大人の「男と女」のつきあい方』
(川北義則 / KADOKAWA)
「年齢を重ねても、たとえ結婚していたとしても、異性と付き合うことによって、人間は磨かれる」というのが著者の考え。しかし、40歳を過ぎてから、 しかも家庭を持つ男の恋愛は難しいのが現実です。 本書は、成熟した大人の男と女が品格を忘れず、愉しくつきあうための知恵を紹介。 いつまでも色気のある男は、仕事も人生もうまくいく!

この記事は書籍『大人の「男と女」のつきあい方』からの抜粋です
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