死にゆく教え子との再会
病室に入ると、目を閉じて、静かにベッドに横たわる奈緒子さんの姿が見えました。
当時、40代後半の奈緒子さんには、病気でやつれた感じはありませんでした。
学生時代の面影を残す横顔には、大人になり、そして悟った人だけがもつような、穏やかで静謐な美しさがありました。
しばらくすると、ゆっくりと目を開け宙を見ていた奈緒子さんの目が、ベッドのそばにいる私を見つめました。
何が起こったのかわからない、という様子で不思議そうに私を見つめる奈緒子さん。
すると次の瞬間、彼女の目に正気が戻り、その美しい瞳から大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちました。
私は胸がいっぱいになり、無言で彼女の手を握りしめていました。
彼女には今、確かに命が宿っている......。
その命の輝きと、握った手のぬくもりを感じながら、私もあふれる涙が止まりませんでした。
静かな病室で、私たちはしばらく無言で手を握り合っていました。
社交辞令のあいさつなど必要ありませんでした。
数年の時間の隔たりを越え、言葉にできない一体感をかみしめていたのです。
「今、言いたいことは?」と訊くと、奈緒子さんは「子供たちが......」と言いかけて、視線を外しました。
「三人もお子さんができて。本当にすばらしいお子さんたちに恵まれましたね」と私が言うと、ゆっくり首を振りながら、「まだまだ......」と言います。
これほど死期が迫っていても、子供たちのことを「まだまだ」という彼女に、私はがんばり屋だった学生時代の顔と、母親としての顔を重ね合わせていました。
しかし次の瞬間、何かが変わりました。
私を見つめる奈緒子さんは、やさしさに満ちた聖母のよう微笑みを浮かべ、こう言ったのです。
「そうですね......本当にあの子たちは、私にとっての大きな恵みでした」
私は奈緒子さんに「仲よし時間」が訪れたのを感じました。
「仲よし時間」とは死にゆく人が最期に命を輝かせる時間のことをいいます。
この時間が訪れると、死にゆく人の価値観や視点が変わり、自分自身と仲直りし、家族や友人などへの愛を再確認します。
場合によっては不仲だった人とも心の和解を果たします。
そして、この世での人生の幸せな終わりに向かって、それまでの不安や恐怖、後悔などを手放し、ありのままの自分に戻り、死への準備を始めるのです。
「今はもう、私は死ぬことは怖くないのです」
奈緒子さんの声は、とても穏やかでした。
ただのあきらめや絶望とも違う、確信という言葉がふさわしい深い落ち着きが感じられました。
「仲よし時間」を迎えた人は、この世の次元を越えた世界に入っていき、すべてを理解していくようです。
私はこれまで、何度もそうした場面に立ち会ってきました。
私は奈緒子さんに、私が死にゆく人たちを看取るようになるきっかけとなった「臨死体験」の話をしました。
死は終わりではなく、命は続いていくこと。
大いなる存在に抱かれて、すべてを許され、受け入れられること。
この世から死後の世界に入って行くのは言葉にできないほどのやすらぎと、幸せに包まれた、すばらしいことであること。
その間、奈緒子さんは、ときにうなずき、残っている力を振り絞るように何度も私の手をぎゅっと握りました。
そして、きれいな瞳で私を見つめ、「うれしい」とつぶやくと、手の力がすうっと抜けていきました。
「何か望むことはありますか?」
「私が死んでも......みんな...悲しまないでほしいのです」
「わかりました。必ずご家族に伝えますからね。他に望むことは?」
「もうありません」
これまで口に出せずに胸に抱えていた思いだったのでしょう。
奈緒子さんの「仲よし時間」が完了しました。
私は奈緒子さんと心からのやすらぎを共有していました。
「それでは、眠りますか?」と言うと、奈緒子さんは静かな寝息を立て始めました。
私は奈緒子さんと静かに呼吸を合わせながら、祈りを捧げました。
私は姉の亜沙子さんのことが気にかかっていました。
二人で静かに病室の外に出ると、妹の口から死という言葉を初めて聞いたのがショックだったのでしょう、亜沙子さんは声を押し殺して、肩を震わせていました。
亜沙子さんの肩を抱きしめながら思いました。
もっと思い切り泣かせてあげたい。
それができる場所があり、悲しむ人を受け止めることができる人が身近にいれば、もっと多くの人たちが救われるだろうにと。
死を受け入れる「聖なるあきらめ」、大切にしたい「仲良し時間」、幸せな看取りのための「死へのプロセス」など、カトリックのシスターが教える死の向き合い方