過去には戻れない。過去を変えよう/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「過去を変えよう」。過去の記憶への向かい合い方について、岸見さんはどのように考察したのでしょう――。

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過去が変わる

意識を今にだけ向けて生きるためには、未来だけでなく、過去も手放さなければならない。未来にも過去にも囚われてはいけないのである。とはいえ、これもまた簡単なことではない。

なぜなら、未来の不安が漠然とした根拠のないものではなく、年金を手にすることができず、身体が動かせなくなるというような現実的なものであっても、現実には起こらないこともありうるのに対して、過去は現に体験したことであり、それをなかったものにすることはできないからである。

その上、長く生きれば生きるほど、過去に様々なことを体験してきたことのすべてが嬉しいことばかりであるはずはない。できるものなら忘れたいと思っても、忘れられないこともあるだろう。不幸と後悔の集大成のような過去は厄介なものである。

しかし、過去に体験したと思っていたことが、本当にあったのかその確信が揺らぐという経験をしたことはないだろうか。

怪我をしたとか、病気で入院したとか、引っ越したというような大きな出来事であれば覚えていても、幼い頃のことは時系列に思い出すことはできない。まして、それが何歳の時のことだったのか正確に思い出すことはできない。

ところが、ある年齢以降は時系列に思い出せるようになるといわれる。たしかに、子どもの頃を振り返ると、十歳前後から記憶が鮮明になる。しかし、その後はすべてのことをはっきりと覚えているかといえばそうではない。

母が脳梗塞で入院した時に、私がある夏夢中になって読んでいたドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んだことがないので読んでみたいというので、私は母の病床でこの長編小説を読み聞かせた。もうその頃には母には自分で本を読む気力は残っていなかった。

ところが、その話を妹にしたところ、母は入院する前にこの本を読んでいたというのである。ロシア人の名前は長く、同じ人についても複数の呼称があるので、名前をすぐに覚えられないからと、母は『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物の相関図を作りながら読んでいた。そのメモを母が見せてくれたことを妹は覚えており、間もなく母が亡くなった時に形見としてこの本をもらったという。

もしもそうであれば、私が病床で読んでいた本は何だったのか。私はその妹が形見にもらったという『カラマーゾフの兄弟』を今も持っている。これほど明々白々の過去のことなのに、私と妹がまったく違ったふうに記憶しているのだ。今となってはどれが真実なのかわからない。

今あげたようなことであれば、私か妹の、あるいは双方の記憶が間違っているだけの話である。私は何度も病床で母に「カラマーゾフの兄弟」を読んだことを人にも話し、本にも書いてきたので私の記憶に間違いがないと確信しているが、実は別の本を読んでいたか、そもそも本を読んでいなかったとしても、大仰な言い方をすれば、歴史が変わるわけではない。

しかし、母が若くして亡くなったという過去はなくならない。過去は過ぎ去ったが、過去が消えたわけではない。事実、あったことがなかったことにはならない。その意味で、過去は変えられないといえる。

それでも、過去を思い出している「今」、それをどう受け止めるか、それをどう意味づけるかで過去が変わることはある。なぜ意味づけが変わるかといえば、今の自分が変わるからである。

ある男性が子どもの頃、犬に噛まれたことを思い出した。今とは違って、昔は放し飼いの犬や野良犬が多くいた。子どもの頃は小さかったからだろう、どの犬も大きく見え、怖かったことを覚えている。彼は親から犬というのは逃げたら追いかけてくるので、街で犬に出会っても、決して逃げてはいけないと教えられていた。

ある日、大きな犬と遭遇した。その時一緒にいた彼の友だちは一目散に逃げていったが、彼だけは親からいわれた通りその場でじっとしていたところ、犬に足を噛まれた。

彼の記憶は犬に噛まれたというところで途切れていた。しかし、当然、出来事はそこで終わったはずはない。

その時は、ここから先のことを彼は思い出せなかった。それにはわけがある。彼は犬に噛まれたことを思い出していた時、他者を無邪気に信じると怖い目に遭い、この世界は危険なところだと思っていたのである。

だから、彼は他者や世界についての考えの正しさを裏づける記憶を、他にも無数にあるはずの記憶の中から選び出したのである。彼の記憶に出てくる親はうっかり信じてはいけない怖い他者であり、犬に噛まれるような怖い目に今も遭うかもしれないと思っているのである。

ところが、彼は犬に噛まれた後の忘れていた出来事を思い出したのだ。犬に噛まれた時、見知らぬおじさんがたまたま通りかかった。その人が彼を自転車に乗せて病院まで連れて行ってくれたのだ。

彼が忘れていた噛まれた後の話でも、犬に噛まれたという事実に変わりはない。その意味で、犬に噛まれた過去が消えたわけではない。しかし、見知らぬおじさんに病院に連れて行ってもらったという話がつけ加わると、過去そのものが変わったといっていいくらいである。

先に使った言葉を使うと、「悪い」思い出が「よい」思い出に変わった。どんな出来事もそれ自体では善悪無記である、つまり、善でも悪でもないことは前に見たが(第8回)、犬に噛まれたけれも、見知らぬ人が彼を助けてくれたという記憶は「よい」記憶である。

犬に噛まれたことは彼にとって「悪い」記憶だったが、彼の世界観に変化が起こった。つまり、怖い目に遭うかもしれないが、自分を助けてくれる人がいると思えるようになったのである。

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過去が創り出される

実際には過去の記憶が創り出されることもある。

アドラーが、自分自身の子どもの頃の回想を語っている(『教育困難な子どもたち』)。まだ五歳だったのに、アドラーは小学校に入学し、毎日墓場を通って学校に行かなければならなかった。この墓地を通って行く時、アドラーは不安を感じ、いつも胸が締めつけられる思いだった。

墓地を通る時に感じるこの不安から自分を解放しようと決心したアドラーは、ある日、墓地に着いた時、わざと級友たちから遅れ、鞄を墓地の柵にかけ一人で地の中へ歩いて行った。墓地の中を最初は急いで歩き、それからゆっくり行ったりきたりしているうちに、ついに恐怖をすっかり克服したと感じることができた。

三十五歳の時、アドラーは、その時の級友に出会って、この墓地のことをたずねた。

「あのお墓はどうなっただろうね」
そのように問うアドラーに友人は答えた。
「お墓なんかなかったよ」

友人の証言が正しければ、アドラーが勇気を振り絞って駆け抜けた墓地は実際には存在しなかった。けれども、アドラーにとっては、墓地が実際にあったかどうかは問題ではなかった。

なぜ、アドラーはそのような過去の記憶を必要としたのか。

子どもの時に困難を克服しようと勇気を奮い起こしたことを思い出すことが、その後の人生において困難を克服し、苦境を乗り切るために必要だったのである。あの時も困難を克服できたのだから、今もできないはずはない。そう自分に言い聞かせたわけである。

アドラーとは違って「悪い」記憶を創り出したり(少なくとも、実際にあったかという確証がないままに過去の「悪い」記憶を保持しようとすることはある)、過去の体験を悪いものとして解釈する人は、過去の出来事を思い出している「今」そうすることが必要なのである。何か問題があっても積極的に解決に向けて動かないためである。

以上見てきたように、過去は消えてなくならないとしても、「今」が変われば過去は変わる。さらにいえば、過去を思い出す必要もなくなる。仮に過去にあったことが今の人生に大きな影響を与えているとしても、はっきりしていることは、過去に戻ることはできないということである。戻れない過去を思って悶々とするのはやめよう。

ぜひ、じっくりと読んでみてください。岸見一郎さん「老後に備えない生き方」その他の記事はこちら

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年10月号に掲載の情報です。
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