「本当の贅沢とは、何も生み出さないことをすること」/岸見一郎

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回は「本当の贅沢」というキーワードに基づく、価値観との向き合い方について。ぜひご一読ください。

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本当の贅沢は、何も生み出さないことをすること。

生産性、有用性、経済性とは関係ないところにある。

贅沢とは

最初に取り上げた相談者は、旅行は贅沢かなと思うという。

何かを買う時、それが贅沢な買い物かどうかは、値段だけで決めることはできない。そもそも、贅沢とは何かがわかっていなければ、その買い物が贅沢かどうか判断することはできない。

辞書を見ると、贅沢というのは必要以上のものを使うことという説明がされているが、必かどうかは客観的に決まっているわけではない。ある人にとって必要なものが、他の人にとってはそうでないことはいくらでもある。必要かどうかは本人しか決められない。傍から見ていると、そんなものにお金を使っても意味がないではないか、贅沢ではないかと思えるものであっても、当の本人にとって絶対必要なものであれば、それを買うことは決して贅沢ではないはずだ。

学生の頃に私が買ったパソコンは当時、非常に高価なものだった。それでも、私にとっては研究のために絶対に必要だったので、無理をして手に入れた。パソコンが今のように普及していなかったので、必要性を理解する人は多くはなかったが、私にとっては必要だったので、必要以上のものではないパソコンを買うことは贅沢ではなかった。

しかし、今振り返ると、何か高いもの、パソコンの他にも本を買う時、それらは高いけれど、研究に絶対必要だからというふうに無理やり自分に言い聞かせていたといえないわけではない。あまりに必要か必要でないかということに囚われていたといえる。

このように、何かを買う時に必要か必要でないかということに囚われすぎることはないだろう。

何かの記念日に花を買って帰ることは贅沢だろうか。その花が必要かどうかといえば必要ではないかもしれない。しかし、高いから買わないとか、花を買ってもお腹は膨れないというようなことを言い出せば、夢のない人生になってしまう。

さらにいえば、お金も要らないともいえる。高価で大きな花束を買う必要はない。夢はお金では買えない。世の中にはお金では価値が測れない贅沢がたくさんある。

一日中、山中を歩き回り、バードウォッチングをする。観光名所を次々に訪れるのではなく、同じ場所に長く滞在する。仕事や勉強のためでなく、楽しみのために本を読む、等々、私はいくらでも思いつく。

普通の意味で贅沢したいと思うのも、必要だからこれは贅沢ではないと思うのも、いずれも生産性に価値があると見ることが根底にある。本当の贅沢は、何も生み出さないことをすることであり、生産性、有用性、経済性とは関係ないところにある。

これから先のことを考え節約しないといけないのは本当である。その意味で人生は生産性、経済性から完全に自由にはならない。しかし、人生を豊かにする贅沢な生き方もあるはずである。

どんな贅沢を求めているとしても、人は贅沢するために贅沢を求めるわけではない。何のために贅沢に生きるかといえば、幸福であるためである。普通の意味での贅沢な生活をしていても、少しも幸福だと感じていないとすれば、その贅沢が幸福であるための妨げになっているからである。贅沢は幸福であるための手段というよりは、自分がしていることで幸福であると思えたら、それが贅沢に生きるということである。

贅沢に生きることの目的である幸福は他の人に理解され難いことがある。幸福は哲学者の三木清の言葉を使うならば「各人においてオリジナルなもの」だからである(『人生論ノート』)。

読者の贅沢を見てみよう。

「今日この日を大切に過ごそうと心掛けています。疲れが出ると早寝して朝早く起きることが私の日課です。現実は人それぞれ違うと思いますが、いつもチャレンジ精神を持ち続けたい」

若い頃であれば何か資格を取るために勉強しなければならないことがあったかもしれないが、そのような必要がなくなり何も結果を出さなくてよくなれば、何かを学び、新しいことにチャレンジしていけるのは最高の贅沢になる。

六十歳で始めた私の韓国語はなかなか上達しないが、キム・ヨンスのエッセイを読んだり、ユン・ドンジュの詩を少しでも読めるとたちまち幸福感に満たされる。韓国語なのでゆっくりとしか読めないが、私よりも若い、また若くして亡くなった作家や詩人たちが書いたものを読み、もっぱら内容について著者と共に考えていけることが楽しい。

心筋梗塞で入院していたある日、主治医が私の胸に聴診器をあてた後、退院後の生活で注意することについて、こう語り始めたことがあった。

「要は、疲れたら休む、ということですね。元の生活には戻れないが、大抵のことはできる」

退院後にしてはいけないことがあるかという問いには、次のような答えが返ってきた。

「これだけのことをいついつまでに必ずやり遂げる、そういうのはやめなさい。高校生が何日も徹夜して何かをやりとげ、エンドルフィンが出て達成感があるというような、そんなことも」

時に原稿の締切に追われ無理をしなければならないことはあるが、概ね医師の言葉通りに生活している。今は嫌な仕事はしていないのが私にとっては最高の贅沢である。

最初の人間のように

「主人も私も七十六歳、二人で畑を借りて野菜を作って友だちにあげ、喜んでもらっています」

私は子どもの頃からずっと田舎に住んでいたのだが、自然に関心を持ったことがなかった。自然の中に生きることがあまりに当たり前すぎたのだと思う。花の名前も鳥の名前も知らなかった。その私が自然の美しさに目覚めたのは、心筋梗塞で一ヶ月入院した後、家に帰ってからのことだった。

昔、母が脳梗塞で入院した当初予後はよかったので、すぐに退院できるだろうと思っていところ、再発作が起き、それから病状は見る見る悪化した。そこで、脳外科のある病院に移ることにしたのだが、母を担架に乗せたまま外に連れ出したら、日の光が眩しくて、手で顔を覆ったことを思い出した。

私も退院した時、世界があまりに眩しく、木々の緑が目に沁みた。新緑の季節を病院で過ごしたことを悔いたが、この時、私は自然の美しさに目を開かされたのだ。私は最初、家のまわりを恐る恐る歩き始めた。その後、遠くまで歩けるようになると、カメラで写真を撮ることを覚え、花鳥風月を友にするようになった。

この読者のように野菜を作ったことはないが、家で療養していた私は妻と娘が出かけた後、ベランダの花に水をやるのが楽しみだった。日毎に育ちやがて花が咲く植物に自分の回復を重ね合わせた。

自然に働きかけなくても、見ることがすでに至福である。

ドイツの詩人リルケは、自分の詩を批評してもらうべく手紙を送ってきた若い詩人に、自分の内へと入っていくことを勧めた後、「自然に近づきなさい。それから、最初の人間のように、あなたが見、体験し、愛し、そして失うものを語るように努めなさい」と書いている(Rilke,Der Brief an Franz Xaver Kappus, Paris am 17. Februar1903)。

見慣れた景色でも人類最初の人間のように見れば、違ったふうに見えてくる。母は身体を動かせなくなったが、その時でも病床で手鏡を使って外の景色を眺めていた。それはその時母がなしえた最高の贅沢だっただろう。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年9月号に掲載の情報です。

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