「人生百年時代、心配でお金が使えない」という不安にどう向き合うか/岸見一郎

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回は「人生百年時代、心配でお金が使えない」という不安との向き合い方について。ぜひご一読ください。

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将来の不安

災害の発生が予想される時に避難勧告や指示を待っていたら、命を落とすかもしれない。何しろ相手は自然なので、不可抗力なことが起こりうるからである。自分で自分の身を守れといわれたら、自力で逃げることが困難な人のことを思うと、そう言い切っていいものかと思わないわけではない。しかし、行政に頼ってばかりいては身を守れないというのも本当なので、対応の不備を責めるのは危機を脱してからにしようと思う。川のすぐ側に住んでいた頃、台風が接近してきた時でも、避難の指示が届かなかったことはよくあった。連絡がなかったから逃げずにいたら大変な目にあったといってみても始まらないので、自力で命を守るしかなかった。

老後に二千万円の貯金が必要だという話を聞くと、貯金がなければ生活が立ち行かず、老後生きていけないのかという不安に掻き立てられる。将来への蓄えがなければ生きていてはいけないといわれたような気がして、私は不安どころか怒りをも感じる。

老後の人生について、自分で自分の身を守れといわれたら、これは政治家の責任放棄としか思えない。私は政治家に幸福にしてもらおうなどとは思わないが、政治家に不幸にさせられたくはないので、生きにくい今の時代についてどうにもならないと諦めてはいけないと考えている。これからの人生を思うと不安になるが、それでも、将来の不安のために生きる喜びや幸福をふいにされたくはない。それでは、どうすればいいだろうか。

人は反応者ではない

読者からの相談を見よう。

「人生百年時代といわれ、心配でお金が使えません。一人暮らしです。旅行もしたいのに贅沢かなと思ってしまいます」

「老後にお金がいくらかかるか心配です。子どもに残さず、貯めたお金は旅行や楽しみなどに使ってしまいたいと思いますが、老人ホームに入るための費用を取っておかなければと思うと何もできなくなってしまいます。どのように考えたらいいでしょうか」

どちらの相談もお金に関わることなので、まず、人間がお金を始めとして、それがなければ不幸になるかもしれないという不安にどう向き合えばいいのかについて考え、次に、最初の相談にある「贅沢」について考えてみたい。

老後にお金が足りなくなるのではないかと考えたら、心配でお金が使えないというのはわかる。旅行に行くことはもとより、日々何かを買う時にも今これを買っても大丈夫かと考えることが私もある。

もちろん、無尽蔵の財産を持っているのでなければ、ほしいものを何でも買ったり、好きなところへいつでも旅に出たりすることはできない。

自分が好きなもののためにお金をすべて使い尽くそうと思っても、老後の生活を思うとそういうわけにはいかない。子どもがいれば子どもに少しくらいはお金を残すことも考えるだろう。

このように、将来の不安が人間の自由を奪う、少なくとも、制限する。将来の不安ではなく、現実に生活に困ることもある。人は何の制約もなく、好きなように自由に生きることはできないのである。

とはいえ、人は現実の厳しさに翻弄されて生きる脆弱な存在ではない。

オーストリアの精神科医であるアドラーは、人間は外界からの刺激に単に反応する存在(反応者、reactor)ではなく行為者(actor)であるといっている。

人間はある出来事や経験から誰もが同じ影響を受け、それに対して同じ反応をする(react)のではないという意味である。人は外界からの刺激に単に反応する存在(反応者、reactor)ではなく、行為者(actor)なので、外界からの刺激を受けてどう行為するかを決めることができる。

もとより、この決定は必ずしも何の制約もないところで行われるのではないので、時に心ならずの決定をしたと思うこともある。

アドラーは、心と身体はどちらも生命の過程、表現であり、互いに影響を与え合うといっている。大きな災害や事故にあって大きな衝撃を受けると、そのことが心にも大きな影響を及ぼし、心に受けた衝撃は身体に影響を及ぼす。老いや病気のために身体を自由に動かせなくなると、そのことが心にも影響を与えるのである。

しかし、思うように身体を動かせなくなった時も、誰もが自分の身体に起こっていることを同じように受け止めるわけではない。若い頃のようには身体が動かせなくなっても、皆が絶望するわけではない。心は身体から影響は受けるが、決定されるわけではないのである。

今ひどく空腹を感じていて、それなのに目の前にパンが一個しかなかったとしても、そのパンを自分以上に必要としている人がいれば、自分では食べずにその人にパンを譲るという判断ができるのが人間である。しかし、中には空腹に耐えかねて、そのパンを食べてしまう人もいるだろう。

この場合、空腹はパンを食べたことの原因だが、プラトンの言葉を使えば、これは「副原因」であって「真の原因」ではない。なぜ「真の原因」とはいえないかといえば、空腹なら必ずパンを食べるわけではなく、人に譲ることもあるからである。

真の原因は「善」である。この「善」には道徳的な意味はない。空腹だけれどもパンを食べないことが「善」である、つまり、自分では食べないで人に譲ることが自分にとって「ために
なる」「得になる」と判断したのである。他方、パンを食べてしまった人も、そうすることが「善」だと判断するのである。どちらの判断が正しいかは状況を離れて絶対的に決まっているわけではない。どんな時もパンを譲るのが善であるとか、パンを食べることが善だと決まっているわけではなく、その時の状況でしか決められないという意味である。

これを現代の問題に引きつけていえば、老後の蓄えを十分持っていないからといって、誰もが不安になるわけではない。

これは不安にならなくていいといっているのでも、宵越しの金は持たないという生き方を勧めているのでもない。ただ、厳しい現実の中にあっても将来を誰もが悲観し絶望するわけではなく、その現実の制約の中にあってなお人は自由に生きることができるということである。

東京、京都、函館、名古屋で次々と人を殺し死刑になった永山則夫は獄中で本を出版した。永山は無知と貧困ゆえに罪を犯したというが、彼を知っている友人は「皆、貧しかった」といった。貧しいからといって誰もが罪を犯すわけではない。

加藤登紀子の「時には昔の話を」を聞くと、私は貧しかった学生の頃のことを思い出す。道端で寝たことはないが、お金がなくても何とか生きていた。貧しかったが不幸ではなかった。社会全体が貧しかったが、その貧しさの中で誰もが不幸だったわけではないだろう。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年9月号に掲載の情報です。

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