遠距離恋愛で完全燃焼できた二人のように「死」を忘れる生き方/岸見一郎「老後に備えない生き方」

「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載、哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回は「自分の死とどう向き合うか」をテーマにした第2回です。

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死を忘れる

今が充実していたら、死がどのようなものかを恐れたり、不安に思うこともないだろう。

遠距離恋愛をしている二人は、別れる時間が近づくと次にいつ会えるか、不安になることがある。

満ち足りた時間を過ごし、完全燃焼できた二人であれば、次に会う約束をすることを忘れたまま別れる。そんなふうに過ごせた二人は、「次」を求める必要がない。次を考えないでいいほど、会っている時を楽しむことができたのである。このように過ごせた二人は次のことを考えないが、結果として「次」はある。

ところが、不完全燃焼で終わった二人は、その日の不満足感を取り戻そうとする。このまま次の約束をしないで別れてしまったら、もう二度と次に会えないとまで思い込んで、次に会う約束を取り付けようと思うのだが、このような二人には「次」はない。

遠距離恋愛とは違って人生には「次」はないが、今の人生が充実したものであれば、来世などに賭けようとは思わないだろう。

話を戻すならば、他者の死は経験できるが、自分の死は経験できない。そうである以上、死がどんなものかはわからない。死がどんなものかわからなくても、どんな死が待ち受けているとしても、今の人生が充実していたら、死がどんなものであるかを考えないだろうし、死があることすら忘れるかもしれない。

さらにいえば、人生の終わりに死があること、それがどういうものであるかによって今の生き方は本来変わらない。考えなければならないのは、今どんな生き方をしているかである。

 

執着があるから死ねる

今まで見てきたように、死を前に何らの恐れも不安もなく立派に死ねると思えない人は、三木清が次のようにいっていることに安堵するかもしれない。

「執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもっている」(『人生論ノート』)

執着するものがない人はいないだろう。子どもがいる人は、子どもの成長を見届けないと死ぬに死ねないと思うだろう。三木自身はこの『人生論ノート』を書いた時に自分が獄死することになるとは思ってもいなかっただろう。獄中で幼い子どものことを思っていたに違いない。

三木の妻は病気で早世した。三木は妻を深く愛していたので、妻の死後も妻のことを度々思い出していたはずである。亡くなった人を思い出す時、その人が生前と変わることなくそこにいると感じられる。その時、三木は妻の永生を確信しただろう。

この確信を持っている人であれば、自分が執着するほど愛していた人が自分が死んだ後も折に触れて自分を思い出すことを確信できるだろう。

三木は次のようにもいっている。
「私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する」

真に愛するものこそ、「執着」する人のことである。

このように考える人にとっては、自分のことが誰からも思い出されなくなったら、その時にもう一度死ぬのである。反対に、自分のことを覚えてくれている人がいれば、その人にとって自分は不死であり続ける。だからこそ、私のことを忘れないでほしいと思う。しかし、私を覚え続けてもらえるかどうかは、あるいは、誰かの心の中で不死でいられるかどうかは、自分では決められない。それでもこのような希望を持てればこそ死ぬことができる。

死は終着地であっても目的地ではないので、死についてまったく考えないで生きることは難しいが人生を旅のように途上を楽しみたい。

 

※岸見一郎「老後に備えない生き方」その他の記事リンク集はこちら

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年5月号に掲載の情報です。

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