三蔵法師が歩いた道のりを、旅行作家の下川裕治さんが辿ります。今回はペシャワール。玄奘を厚く遇した人々の末裔は、下川さんをももてなします。
シルクロードの旅人に支えられた街
ペシャワールの街を、あの頃も馬車が走っていたのだろうか。道端の茶屋は、あの頃も、甘い緑茶を出していたのだろうか。
パキスタン北西部にあるペシャワールは、カイバル峠を越えた旅人が背負った荷物を下ろす街だった。その役割はいまも昔も変わらない。いまのアフガニスタンからカイバル峠を越えた玄奘三蔵も、この街で足を休めたはずだ。
靴を脱ぎ、座って食べる。ペシャワールの流儀
この一帯に暮らしているのが パシュトゥーン人である。彼らがシルクロードの交易を支え、街全体がバザールのようなペシャワールをつくりあげてきた。
そのにぎわいは、時の権力者たちの目を輝かせてしまう。それがペシャワールという街がもつ宿命でもあった。
市内のキッサ・カワニ・バザール。金細工通りは一帯が眩しいほど
植民地時代──。現在のインドとパキスタンを植民地にしたイギリスは、アフガニスタンに勢力を拡大し、そこに境界を引いてしまう。デュアランド・ラインと呼ばれるもので、それがいまのアフガニスタンとパキスタンの国境になっている。
イギリスの軍事支配に抵抗するパシュトゥーン人を分断することも目的だったといわれるこの境界は、不思議な構造を生む。パシュトゥーン人の国アフガニスタンと、パキスタン領内にあるパシュトゥーン人の街、ペシャワールがつくられてしまったのだ。
その後、アフガニスタンに旧ソ連が侵攻する。アフガニスタンで抵抗するパシュトゥーン人をペシャワールが支えていくことになる。国を支える、別の国にある街......。それをいとも簡単にやり遂げてしまうのが、シルクロードである。領土争いに明け暮れた近代という時代を、シルクロード2000年の歴史はたやすく凌駕(りょうが)してしまう。
男たちは靴やサンダルにこだわる。だからこの数?
市内のマハバット・ハーン・モスク。外観より内装にうなる
ペシャワール周辺の安定はいまひとつだ。しかしバザールが広がる街を歩いていると、それを意に介さないパシュトゥーン人の心意気が伝わってくる。
一軒の食堂に入った。羊肉をミンチにし、香辛料を加えて焼いた羊肉ハンバーグの店だった。食べ終わり、代金を払おうとすると、主人は首を縦に振らなかった。受け取れないという。
「パシュトゥーン人は旅人から金なんかもらえないよ。わざわざペシャワールまで来てくれたんだ」
これがシルクロードの伝統だった。この交易の道は、旅人に支えられている。
食事の後は、甘い緑茶で世間話。延々と
何回となくお茶も飲ませてもらった。カワと呼ばれる緑茶である。パキスタンではミルクティーが普通なのだが、ペシャワールは徹底して緑茶の街だ。もちろん、金は受け取ってもらえない。
この街に滞在したであろう玄奘三蔵も旅人だった。きっと彼も食事やお茶の代金は受け取ってもらえなかったはずだ。
写真/中田浩資