音楽でも人生でもよきパートナーだった夫の勝さん。「いつもお仏壇に向かって"行ってきます。守ってちょうだい"と手を合わせてから出かけて、帰ってきたら"ありがとうね"と必ず言っているんです」
いつまでも理想を求めて頑張らなくちゃ
――1989年に石垣島に移り住んだんですね。
29歳のときに沖縄から夫の故郷の千葉に移って、しばらく子育てに専念していましたが、お姑さんが「子どもたちは私が見るから歌ったら」と言ってくださって、また夫婦で音楽をやるようになったんです。
夫は、子どもたちに寂しい思いをさせているからと、夏休みのたびに子どもたちを連れて石垣にキャンプに行くようになって、すっかり石垣が好きになってしまったんですね。
それで「老後は石垣で」と夫婦で移り住みました。
幸い先に娘が石垣に移り住んでいて、小さな喫茶店をやっていたので、そこで週末に夫の伴奏で歌わせてもらったりしていました。
ところが移住して数年経った頃、夫が体調を崩して、あっという間に亡くなってしまったんです。
ずっと元気だったんですけど、腰が痛いと言い出して、沖縄本島の病院に行かせたら、翌日先生から「石垣に戻る予定なら、急いでお連れしなさい」と電話がきて。
石垣の病院に入院してからは、早かったですね。
それからというもの何もしたくなくて、音楽を聴くのもつらかった。
10年以上歌うこともできませんでした。
夫がいた頃は一軒家に二人で住んでいたんですけど、一人になったら寂しくて、賑やかな場所のマンションに移り住みました。
それでもずっとふさぎ込んでいたら、ご近所の方がなにかと誘い出してくれたんです。
老人クラブでフラダンスを踊るうちにウクレレもやりたくなって、また音楽に触れるようになったらムラムラムラって音楽への情熱が(笑)。
そしてある日喫茶店でお茶をしていたら、フルバンドの曲が流れてきて、いてもたってもいられなくなっちゃったんです。
週末になるとそこに音楽好きな人がウクレレを持って集まるということで、私も混ぜていただいて、最初はハワイアンを弾いていたんですが、そのうち簡単なジャズのスタンダードの歌をやるようになって。
それを聴いた「すけあくろ」というジャズバーのマスターが、「ライブをしませんか」と声をかけてくださったんです。
――デビューアルバムのレコーディングも「すけあくろ」でされていますね。
娘が「すけあくろ」のマスターと知り合いで、私が長いこと歌っているのに音源が残っていないという話から、アルバムを企画してくれました。
でもレコーディングって大きなスタジオでやるものと思っていたから、「すけあくろ」の地下の小さなライブスペースで録ると聞いても半信半疑でしたね(笑)。
でも素晴らしいミュージシャンが集まってくださって、ほぼ一発録りでしたが、こんなにきれいに録れたんだって自分でも驚くほどの出来になりました。
――毎朝のルーティンがあるそうですね。
早起きして近所の公園で6時半からラジオ体操をしています。
そのあと近くの図書館に向かって、大声でボイストレーニングをやるんです。
その時間ならまだ誰もいませんから、いくらでも大きな声が出せます。
ラジオ体操では面白い出会いもありました。
なぜか体操をしないのに、いつもいらっしゃる方がいて、挨拶をする程度だったのですが、ある日、本の切り抜きをくださった。
そこに「人は歳を重ねただけでは老いません。理想を失ったときに初めて老いが始まる」と書いてあったんです。
この言葉がすごく心に沁(し)みて、公演のたびに必ず言っているんです。
やっぱり、いつまでも理想を求めて頑張らなくちゃね。
若い人と接していろんなことにトライするのもいいと思います。
この間も私の88歳のお祝いをみんなにやってもらったのですが、お礼にかくし芸をしたんです。
みなさん転げるように笑ってくれて、私も元気になりました(笑)。
夢は97歳まで歌い続けることですね。
沖縄では97歳のときに「カジマヤー」という盛大なお祝いをするんです。
派手な着物を着て、たくさんの飾りをつけたオープンカーで町を走る。
それまでは元気で歌っていたいですね。
取材・文/鷲頭紀子 撮影/ Herbie Yamaguchi