コロナ禍の制限下でも「お家でライブ」を実施し、ファンからの要望を受けて「『有楽町のさゆりさん。』ドレスと、着物で、逢いましょう」を開催。50年以上の芸能生活を経ても新たな挑戦を続ける石川さゆりさんの進化と、母娘間の信頼関係に焦点についてお聞きしました。
この記事は月刊誌『毎日が発見』2024年2月号に掲載の情報です。
「友達のような母娘」
それよりも「信頼できる母娘」。
あくまでも親は親、子は子。
――3月に開催されるコンサート「『有楽町のさゆりさん。』ドレスと、着物で、逢いましょう。」はどんな内容に?
コロナ禍の3年余り、大変なご苦労をされた皆さん同様、当時は私たちもほとんど音楽活動ができませんでした。
でも、こんなときこそ、音楽をお届けしなくてはと「お家でライブ」と題してごく少数のミュージシャンの方に参加いただき、私の自宅からユーチューブ配信をやってみたんです。
すると、「コロナ禍が落ち着いたら、ぜひこのアコースティック形式でコンサートを開催してほしい」というお声をたくさんいただきました。
私はこれまで、50年を超えて歌わせていただくなかで、大ホールでのコンサートが中心で、小さな会場は経験がありませんでした。
そこで、「いままでと違うことをやるのもいいのでは」と2021年9月頃から、アコースティック形式の小規模なコンサートを各地で開催してきました。
私の音楽仲間のミュージシャン4人ずつで2チームを作り、交互に演奏してもらったのですが、それぞれ楽器の編成が異なるので、同じ曲でも違う響きになるんです。
その上、みんな気心の知れた仲間ですから、日によってはチェロで歌い出してみたり、途中からピアノやギターが入ってきたりと自由にできる。
それがすごく新鮮で。
それを皆さんにも楽しんでいただこうというのが今回のコンサートです。
毎日、歌うことを仕事にしてきて、それが自分の生活として何気なく過ぎていた。
でも、それがピタッと止まり、街から人が消え、自宅からも出られなくなる。
人生でそんな経験をするなんて、思いもしませんでした。
でもそれが、いままで考えなかったことを考える機会になりました。
音楽仲間の素らしいところをたくさん見つけられたし、お客様に歌を届けられることも、すごく新鮮に感じました。
自分たちが届けたいと思うから届くし、叶えたいと思うから叶うのであって、当たり前にあることないだなと。
「自分が何をしたいか」を意識することが大事なんだと、改めて気付かされました。
――芸能生活を語る上で欠かせないのが、紅組最多の46回、40年連続で出場を果たしたNHKの紅白歌合戦です。
19歳の1977年、「津軽海峡・冬景色」で初出場したときは、全く緊張することなく、気持ちよく歌わせていただいたことを、いまも覚えています。
怖いもの知らずで、若かったんでしょうね。
最近は、「津軽海峡・冬景色」と「天城越え」を毎年交互に歌っていますが、「これでいいのかな?」と思った時期もありました。
でもいまは、皆さんが「一年が無事に終わり、新年を迎えられる」と安心していただけるなら、それでいいのかなと。
ただし、単に同じ歌を繰り返すのではなく、その年ごとに「石川はこんな思いで、今年も歌っていました」というものを注いでシーンを作り、その年なりの「津軽海峡・冬景色」や「天城越え」を歌っているつもりです。
――昨年は役所広司さんがカンヌ国際映画祭男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』に出演、歌では様々なアーティストとコラボするなど活動の場が広がっています。
撮影は一昨年の秋でした。
当時、私は50周年記念リサイタルを控えて時間もあまりなかったのですが、拝見した脚本が素敵で、ヴィム・ヴェンダース監督と役所さんがどうやってこの作品を作るのか、体感したくなってしまったんです。
劇中ではフォークの名曲「朝日のあたる家」も歌っていますが、私が演じるスナックのママが、お客さんのリクエストに応えて歌う場面だったので、練習もなく本番一発撮りでした。後で聞いたら、あれは役所さんの大好きな歌だそうで。
先に言っておいて欲しかったです(笑)。
私は元々、すごく人見知りで、そんなに社交的でもなかったんです。
でも、50年間歌わせていただく中で、阿久悠先生を始め、私の作品を書いてくださった先生方が次々と亡くなり、一緒に歌を作ってきた同志がいなくなってしまったんです。
それで、今後自分の作品をどう作っていくべきか、考えざるを得なくなって。
そこから、いろんな方たちと出会い、若い世代に伝えられるものは伝えながら、新しいものを作っていこうと考えが変わってきました。