2021年に、小説「キネマの神様」が映画化された作家の原田マハさん。そのモデルとなったお父様との思い出、メガホンを取られた山田洋次監督との出会いについて伺いました。
フーテンの先に人生がある⁉
――お父様をモデルに書かれた小説「キネマの神様」が山田洋次監督の映画になりました。
そうなんです。
小学2年生の時、『男はつらいよ』の映画第1作に父が連れていってくれたんですよ。
東映まんがまつりだと思って行ったら、腹巻きした変なおじさんが出てきて(笑)。
でも、見終わる頃には寅さんが大好きになっていて。
帰りにポスターを買ってもらって、5年生になるまで部屋に貼っていました。
――"フーテンの寅"ならぬ『フーテンのマハ』というエッセイも出されています。
"フーテンのマハ"も「楽園のカンヴァス」を書くためパリに長期滞在した時、父が付けてくれたんです。
折に触れ、ちょっとした手紙をくれる人だったんですけど、「お前はどこへでも、ひとりでふらりと出かけてしまう。そんなお前をこれからこう呼ぼう」って。
そもそも、それ自体が父の影響なんですけどね。
日曜日になると、父は兄(作家の原田宗典さん)と私を純喫茶に連れていくんです。
そこでは大人の雑誌も自由に読んでいいんですよ。
その後、本屋さんに連れていってくれて、好きな本を選ばせてくれるんですけど、「1時間、ここで待っていてくれ」って。
いま思うと、場外馬券売り場に行っていたんだなと思うんです。
そういう「放置」がよくありまして...。
母と一緒に『八甲田山』を見に行った父が、約束の時間になっても戻ってこず、ひとり純喫茶で待ち続け、閉店後に帰ってきた父の顔を見たらホッとして、「八甲田山に行っている場合じゃない!」と泣きながら怒ったのを覚えています。
そんなこともありましたが、「放置」の数時間は濃厚でした。
例えば、中2の時、神戸に連れていってもらったんですけど、お小遣いを1万円くれて「6時間したら帰ってくる」とまた私を放置。
中2の女の子がひとりでお茶したり、お菓子を買ったり、1万円で洋服をコーディネートしたりして過ごしました。
父の「ひとりで何でもやってみろ」という方針が、私を育てましたね。
映画、本、アートに関しては、見たいものを全て見せてくれる人でした。
――アートといえば、20歳の時に、アートショップでアルバイトされていたそうですね。
いま思えば、それがアートの仕事の入り口になりましたね。
当時、神戸に「ワンウェイ」というかっこいいお店があって、好きで通っていたんです。
そうしたら、「アートが好きそうだけど、働いてみない?」って。
そうやって、いつも、ふらふらしていたんですよ。
――小説のデビュー作も、たまたま訪れた沖縄がきっかけになったそうですね。
当時は美術館を辞めて、フリーのキュレーターをしながら、アート関係のライターもしていた頃で、沖縄の取材のお話をいただいて。
1泊で帰ればいいのに、私は自腹で5泊したんですよ。
もちろん現地でふらふらするために。
その時に、沖縄の離島で、カフー(沖縄の言葉で「幸せ」)という名前の犬に出会ったんです。
デビュー作「カフーを待ちわびて」はそこから想を得て書いた小説なんです。
――ふらふら楽しむ中で、自然と先につながっています。
そうですね。
ただ、私のプロフィールを見て、「マハさんの人生は成功体験しかないんじゃないか」と言われることがあって、確かにニューヨーク近代美術館(MoMA)で働いていたり、一見すると華々しく見えるのですが、水面下でどれほどの苦労があったことか(笑)。
先ほどの「ワンウェイ」の頃も、それこそ父は「自分の生活は、自分で何とかしろ」という人でしたから、安い下宿に住んで、お風呂も銭湯で3日に一度とか、そういう時期もありました。
――大変な時期は、どうやって乗り越えられましたか?
まず、自分に嘘をつかないことですね。
岐路に立った時、大変な道だとしても、本当に行きたい方を選ぶ。
大変なんだけど、自分で選んだ道だと納得して、いろいろな方法を考えるんです。
その一つが、やりたいことを言葉にして表現すること、誰かに打ち明けること。
実は、ひとりで何とかしたことって、あまりないんですよ。
「こんなことしたいんだけど、一緒にやらない?」「どうしたらいいと思う?」っていつも誰かに相談を持ちかけていました。
気付かないだけで、支援者やサポーターって結構、自分の周りにいるものなんですよ。
チャンスの神様の前髪が見えたら...
――『キネマの神様』の映画化は、山田洋次監督との雑誌の対談から始まったそうですね。
実は、その対談は私から持ちかけたものだったんです。
よく"チャンスの神様は前髪が短い"って言いますけど、ちょっと前髪が見えたら、つかまずにはいられない性格で。
考えるより先に、もう手が伸びている(笑)。
それは作家になってから、ますますそうなりましたね。
原作の「キネマの神様」は映画が好きだった私の父をモデルに書いた小説で、誰にも言いませんでしたけど、映画化されるなら山田監督以外にいないとずっと思っていたんです。
一つの妄想として(笑)。
ちょうど小説を書き始めて10年がたった頃で、10年作家として書き続けられたら、この仕事のプロフェッショナルと名乗ってもいいだろうと自分に課していたんですね。
そのタイミングだったので、ずっと願っていたことを行動に移してみようと、私の方から山田監督との対談を提案させていただきました。
実際にお会いしたら、監督がすでに小説をお読みになっていて「僕が撮るなら、こうしたい」とイメージを語り始めて...。
夢かと思ったぐらい。
本当にキネマの神様にささやかれたような瞬間でした。
――山田監督の映画をノベライズされたディレクターズ・カット版も出されて。
本当に、こんな形でコラボレートさせていただけるとは思いもしませんでした。
山田監督の映画の脚本は、原作とはかなり変わっていたのですが、真夜中に一読させていただいて、これは素晴らしいと。
山田監督の青春のきらめきがいっぱい詰まっていて。
お会いしたら、監督が「(原作とは内容を変えたから)原田さんにノーと言われたらどうしようと、脚本を仕上げてからドキドキした」とおっしゃっていて、あんなに巨匠なのに、非常にピュアなクリエイターの一面が見えて。
そういうウブな部分を多くの人は失っていくものだけれど、優れたアーティストはいつまでもそれを持ち続けているんですよね。
私もそういう作品を書き続けたいと思います。
常に生々しく、新鮮に文章に向き合えたら。
そういう意味でいうと、父は美術全集のセールスマンをしながら、ギャンブルが好きで家族にも迷惑をかけましたけど、いつまでもウブな人だったなと思います。
母なんて、いまだに「憎らしい人だった」って言うんですけど(笑)、「でも、心底は憎めない人だった」って。
この映画には父も参加してくれた気がして。
山田組の人間性だと思うのですが、亡き父へのリスペクトを一時も忘れずにいてくださって、こんなすてきな映画作りがあるんだなと、永遠に忘れられない経験をさせていただきました。
父と深いところでつながっていただいたような気がして、それがすごくうれしいです。
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取材・文/多賀谷浩子 撮影/ZIGEN