2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の津波に襲われ、制御不能となった福島第一原発の現場に残り、命懸けで作業を続けた地元出身の作業員たち。
海外メディアから「フクシマフィフティ」と呼ばれた50人の緊迫した数日間を描いた映画が3月に公開されます。
若松節朗監督にお話をうかがいました。
まさに"ワンチーム"。芝居を超えた撮影現場
――映画化の経緯は?
若松:この50人がいたことを映画にして語り伝えたいと。 自分なら、我が身を犠牲にして危険な建屋に飛び込めるか、皆で考えながら撮影に臨みました。
――臨場感がすごかったです。
若松:リアリティーを追求しないといけない映画なので、静岡の発電所を取材させていただきました。 写真撮影禁止だったので、スタッフで分担してメモをとって、徹底的に再現しました。1号機と3号機の爆発もほぼ忠実に再現しています。このシーンが撮影初日でしたが、粉じんだらけで壮絶な現場でした。皆が「これは大変な映画になる」と初日に実感できて、監督としてはありがたかったですね。
――1号機2号機の当直長・伊崎 (佐藤浩市)と福島第一原発の所長・吉田(渡辺謙)を中心に、濃密な数日間が描かれます。
若松:浩市さんは撮影に入る前に、役者たちを呼んで、飲み会をしてくれたらしいんです。そして、謙さんは撮影初日に俳優やエキストラの皆さんに向けて「我々の熱い思いを画面を通して皆で伝えましょう」と語りかけてくれました。
2人のリーダーシップがすごいんです。 中央制御室の場面では、ほぼ順撮りだったので、メイクで疲れた顔を作る必要もないくらい、日に日に皆の表情が変わっていきました。 だから、例えば、緊迫した状況の中で「ひとまず危機回避に成功した!」となると、出演者の皆の喜びが"本物"なんです。 こちらの大きなカットの声が聞こえないぐらいの歓声でした(笑)。
そういう瞬間に立ち会えていることが、監督として素晴らしいなと。芝居を超えた、生ものでしたから。ここまで俳優の芝居を見るのが楽しみな現場はまれです。 皆がスクラムを組んで、まさに"ワンチーム"でした。
美しい桜並木が語りかけるもの
ーー桜並木の場面が印象的です。
若松:いちばん複雑な思いになった場面ですね。あそこはいまだに帰宅困難区域ですから。そこで伊崎がなんともいえない表情で、あるせりふを言うんです。ここを撮りたいがために、この映画を撮っていた気がします。
ーー撮影時の佐藤浩市さんは?
若松:ほかのシーンを全て撮り終えた1カ月後に、この場面だけ撮影したのですが、浩市さんは早朝にホテルを出て、浜辺をずっと歩いていたみたいで。実際に津波が襲った浜辺で、役として体験した出来事を回想していたんでしょうね。一言のせりふなのですが、浩市さんの目指す表情があって、8回ぐらい撮り直しました。こんな美しい桜並木が、いまも変わらず咲く。ところが、それを鑑賞できる人は誰もいない。廃炉作業が50年続く中、あの美しい桜も50年咲き続ける......福島を代表する美しい自然が汚された意味合いも込め、撮りたかった場面です。
ーー「ふるさと」への思いですね。それを想起させる「ダニー・ボーイ」も劇中でかかります。
若松:あの曲は戦場に息子を送り出した父親の心情を歌っているんです。部下を放射線量の高まる建屋に送る伊崎も、職場に部下を送る上官のような気持ちだったのではないか。その思いも込め、この曲を入れました。この50人は放射能の怖さを誰よりも知っている人たちですから、そう簡単には建屋に突入できない。「俺たちにしか守ることはできない」と伊崎が若い世代と話し合う場面が、この映画の核になると思いました。
ーー戦場に部下を送る気持ちというお話がありましたが、これまで人間の過ちを省みる映画というと、太平洋戦争が描かれることが多かったように思います。
若松:GEが福島第一原発の1号機を作ったあの場所は、磐城飛行場跡で、日本軍の訓練場だったんです。 親子が写真を撮っている場面に碑があって、「いわき飛行場跡記念碑」と書いてあるのですが、あの碑は撮影のために僕らが作ったんです。そこに作られた発電所という因縁を感じながら、ずっと撮影していました。この映画の意義は「俺たちは何か間違ったのか?」と伊崎と吉田がトイレで話す場面にあるように、人間は自然や災害にどう向き合うべきなのか、その警鐘です。身近にあった大事故だけに、そういう反省も込め、日本の人たちには絶対見ていただきたい作品だと思っています。
構成/吹春規子 取材・文/多賀谷浩子 撮影/松本順子(KADOKAWA)