関ヶ原の戦いは部下への「嫉妬」が原因? 豊臣秀吉と戦国2大軍師に学ぶ「嫉妬深い人」との付き合い方

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!

関ヶ原の戦いは部下への「嫉妬」が原因? 豊臣秀吉と戦国2大軍師に学ぶ「嫉妬深い人」との付き合い方 pixta_14714693_S.jpg

秀吉が仕掛けた罠

部下は上司の嫉妬から、逃れる術はないのだろうか。

実は歴史の世界には、いくらでも汎用のきくケース・スタディがあった。

たとえば、戦国武将・黒田官兵衛(軍略に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えた戦国武将)。

彼は天下人に王手をかけた豊臣秀吉に、その雄渾な器量を嫉妬され、あやうく殺されるところであった。

天正十五(一五八七)年、九州を平定した秀吉は、筑前博多の筥崎(箱崎)で、おおまかな論功行賞を行う。

官兵衛に与えらえたのは、城井谷(きいだに)という土地を含む豊前の国の一部。

城井谷は宇都宮鎮房(しげふさ)氏という地生えの国土領主があり、彼は秀吉の九州征伐に進んで協力しながら、いざ論功行賞となると、秀吉から一方的に伊予か上筑後(現・福岡県西北部)のいずれかに転封せよ、と命じられる。

城井谷は、鎮房の祖先である初代・信房が、鎌倉幕府を開いた源頼朝から拝領した土地であった。

四百年十八代にわたって、治めて来た土地である。

愛着も大きい。それを捨てて、別天地にむかえといわれても、鎮房にすれば到底、素直に聞ける話ではなかったろう。

苦悩した彼はやがて怒りを発して、新天地への知行宛行状を秀吉に突き返す。

ここで、官兵衛の同僚・毛利勝信(前名は吉成)が仲裁の労をとろうとした。

とりあえず、自領の田川郡に移って、村を一つ預けるから、ここでねばり強く本領安堵を秀吉へ働きかけてはどうか、と提案したのである。

ところが、このタイミングで九州一円の一揆の一斉決起が起きた。

鎮房は交渉の道を捨てて、あっさりと城井谷を武力で奪還する。

筆者はこれこそが、秀吉のしかけた官兵衛を殺す謀略であった、と考えてきた。

このおり、城井谷に立籠った鎮房に官兵衛の嗣子・長政が挑んだものの敗北。

結局、官兵衛は長政に鎮房を暗殺させ、むりやり一件を落着させたが、明けて天正十七年(一五八九)、官兵衛は突然、家督を長政に譲り、自らは隠居を願い出た。

四十四歳、まだ若かった。

秀吉は承知をせず、困った官兵衛は御台所=正室の北政所から秀吉を説得してもらい、ようやく隠居の許しを得た。

家督を継いだ長政は、このとき二十二歳である。

官兵衛はなぜ、この時期、いそぎ隠退を望んだのであろうか。

宇都宮鎮房を謀殺した一件が、心に大きな傷となっていたのは間違いあるまい。

だが、それだけではなかったような気がする。

ここで登場するのが、世に知られた挿話である。

ある一日、秀吉はたわむれに近臣に向かって、わしが死ねば誰が天下を取るであろうか、忌憚のないところを申してみよ、といった。

そこで人々は己れの意中を口々にいったが、いずれもは五大老(徳川家康・前田利家・小早川隆景・毛利輝元・宇喜多秀家)の中の人の名であった。

すると秀吉は頭をふって、否、一人だけ天下を取り得る者がいる。

そちたちはそれを知らぬのか、という。

一同が判らないと答えると秀吉は、あの足跛(ちんば、官兵衛のこと)が天下を取るであろう、といったので皆の者は、彼の人はわずかに十万石、どうして天下人になどなれようか、と口々にいい合った。

そこで秀吉はいった。

「そちたちは未だ彼の男をよく知らぬゆえ、疑うのだ。わしがかつて備中高松城を攻めたとき、右府(織田信長)の訃報が届いたので、日に夜を継ぎ東上して明智を討滅したが、以来、戦うこと大小数回もあった。わしは大事の場に臨んで息の詰まる思いもし、謀もあれこれと決めかねることがあった。そうしたおり彼に相談すると、たちどころに裁断し、思慮は些少は粗忽で荒っぽいものの、ことごとくわしが熟慮の結果と同じであった。ときには、はるかに意表をつくものさえ数回あった。彼はその心は剛健で、よく人に任じ、度量が広く思慮深く、天下に比類なき者だ。わしの在世中といえども、もし、彼が天下を望めば直ぐにも得るであろう〈後略〉」(筆者『現代語訳 名将言行録 智将編』)

『故郷物語』(竹井某著)では、秀吉のお伽衆の一人となっていた山名禅高(豊国)が、秀吉に同様のことを尋ねられている。

湯浅常山(ゆあさじょうざん)の手になる『常山紀談』では、官兵衛が直接、秀吉に問われることになっていた。

天下を取るのは毛利輝元どのですか、と官兵衛が答えると、

「いや、目の前の奴じゃ」

と、秀吉は答えたという。

官兵衛は自らが黒田家の当主であるかぎり、この先、どれほど自分や黒田家の将士が手柄を立てても、秀吉は禄高を増やすつもりはない、と確信した。

官兵衛隠居と半兵衛の覚悟

加えて、先の『黒田家譜』にもあった「権臣等」の存在も大きかった。

秀吉が官兵衛を妬む心を、側近くにいて的確に汲み取れる人物がいた。

「五奉行」(浅野長政・前田以玄・石田三成・増田長盛・長束正家)の面々である。

なかでも中心人物で、今や一番の権臣といってもよい三成は、秀吉の心の中を慮ることにかけて、おそらく右に出る臣下はいなかったであろう。

時代がいつしか、側近政治から集団=官僚政治へと移行しつつあった。

秀吉と幄帷(いあく)にあって、直接、秀吉に助言をするというスタイルが、豊臣政権の樹立、組織体の整備の過程で、すでに過去のものとなりつつあったのだ。

それほどに、豊臣政権は膨張したといってよい。

無理もない、織田家より以上に、豊臣家は大きくなったのだから。

筆者はかえすがえすも、官兵衛を隠居させ、遠ざけようとしたことは、秀吉の大失策だったと思う。

なぜならば、官兵衛は生涯、主人と仰いだ人間を、自分の方から裏切ったことはなかった。

小名の小寺家から織田家(正しくは羽柴秀吉)へ、その身を移したのは、主家小寺氏の裏切りに会って、摂津有岡城(現・兵庫県伊丹市)の荒木村重のもとへ説得に出向き、牢獄へ閉じ込められ、殺されそうになったことを受けての処置であった。

しかも官兵衛はのちに、憎んでもよい旧主の小寺政職(こでらまさもと)を殺さず、その子を客分として黒田家に迎えている。

これはなかなか、できることではない。

先の秀吉の言葉を借りれば、「其心(そのこころ)剛健、能(よ)く人に任じ、宏度深遠(こうどしんえん)、天下に比類なし」である。

秀吉が官兵衛に嫉妬せず、怖れずに、すべてを委ねるつもりで帷幕(いあく)に置きつづけていれば、己の死後、関ヶ原の戦いそのものが防げた可能性は高い。

よしんば決戦がおこなわれたとしても、黒田長政が舞台裏にまわって福島正則らを説得することはなく、家康に一日で天下を取らせるような結果にはいたらなかったはずだ。

やはり秀吉の主人としての度量に、そもそも問題があったのかもしれない。

否、彼も老いたということであろう。

秀吉の養子・秀勝は天正十三年(一五八五)に、十八歳で病没している。

天正十七年五月に生まれた鶴松は、あっさりと夭逝。心底、頼りにしてきた弟の秀長も、天正十九年正月には他界している。

改めて文禄二年八月(一五九三)八月に生まれた秀頼は幼く、自らの家臣団が成長するにはなお、時間を必要としていた。

幼いわが子に目がくらんだ秀吉は、甥の関白秀次を高野山へ追い、切腹させてしまった。

このあたり、壬申の乱で愛息・大友皇子を失った天智天皇にも通じるものがある。

やはり、嫉妬は拡散し、発した本人にもかならず反射があるもののようだ。

官兵衛の心中を同様に、しかも最も素早く事前に理解していたのが、〝名軍師〟の呼び名も高い竹中半兵衛であったろう。

彼は天文十三年(一五四四)の生まれで、官兵衛より二歳の年長となる。

竹中家は美濃の国主であった斎藤氏に仕えた被官であったが、天下の堅城・稲葉山城を半兵衛はたった十六人で乗っ取るという、〝奇跡〟を演出したことで知られている。

信長の美濃合併後、織田家の目付として秀吉のもとで、半兵衛はその補佐役をつとめた。

彼は中国方面軍にも参加、官兵衛が荒木村重説得に出むき、有岡城内の牢へ幽閉されたおり、主君信長から裏切りを疑われた官兵衛の処罰として、その子の松寿 (のちの長政)を殺すように、と命じられた秀吉にかわって、殺害をうけおいながら、己れの生命を懸けて松寿をかばい切ったこともあった。

覇王信長にはむかいながら、事後に感謝された例外の中の例外の人でもある。

その半兵衛は、有岡城に入ったまま消息不明の官兵衛を無視するように、天正七年六月十三日、三木城攻めの前日に没している。

享年三十六。

肺の病による、若すぎる死であった。

興味深いのは亡くなる前、彼は密かに高野山に隠棲することを考えていた点である。

なぜ、若くして俗世をはなれたがったのか。

無論、体のことがあったが、それだけではなかった。

半兵衛は仕える上司=秀吉の本性を、すでに見抜いていた形跡がある。

范蠡(はんれい、中国春秋時代の越の政治家・軍人)のいい分と同じであった。

苦労は共にできるが、栄達を一緒に祝うことはできない。

少なくとも半兵衛は秀吉の人となり、心の奥底にわだかまる劣等感、嫉妬の凄まじさに、最も早く気がついていたことは間違いない。

その証左に、秀吉から死後の人事=半兵衛の後継を訊ねられたおり、神子田正治の名をあげたが、この人物はのちに秀吉の不興を買って、切腹させられていた。

曲がりなりにも、大名で生き残り得た官兵衛を、さすがと讃えるべきかもしれない。

2020年大河の背景も見えてくる「日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく」記事リストはこちら!

関ヶ原の戦いは部下への「嫉妬」が原因? 豊臣秀吉と戦国2大軍師に学ぶ「嫉妬深い人」との付き合い方 073-nihonshihashitto-syoei+.jpg

日本人の嫉妬深さがよく分かる・・・現代社会にも通じる人間関係など、「嫉妬」を5つのテーマに分類して紹介されています

 

加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪府生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学研究員を経て歴史家・作家として活動。大学や企業で講師を務める傍ら、独自の視点で日本史を考察、研究。著書に、『「図説」生きる力は日本史に学べ』(青春出版社)、『刀の日本史』(講談社)など多数。

073-nihonshihashitto-syoei++.jpg

『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』

(加来耕三/方丈社)
「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」など歴史的な事件の数々を、その当事者たちの行動や発言から著者独自の史観で考察された一冊。事件をのぞいて見れば、「他者への嫉妬」が渦巻いていたという驚愕の事実が…。嫉妬深い日本人の民族性や、だからこそ作り上げられた文化、さらには歴史的人物たちが抱いた当時の思いにも触れられます。

※この記事は『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社) からの抜粋です。

この記事に関連する「趣味」のキーワード

PAGE TOP