室町時代も今と変わらない?能力が高すぎた武将、仲間のヤキモチに疲弊

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!

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将軍義政を感動させた道灌の叡智

「学雪の功績で、五山無集()の学者たり」(『永享記』)

当時の東西五山は、今でいう総合大学といってよかった。

その学業をトップで終えた太田道灌(室町時代後期の武将。学者としても一流とされているが、謀殺された悲劇の武将として知られる)は、康正元年(一四五五)、二十四歳で太田家の家督を継いでいる。

周囲はその英邁さを称えることはあっても、嫉妬など起きるはずもなかった。

その頃、太田氏はまだ、武州の荏原品川(現・東京都品川区)にいた。

居館は御殿山辺りで、それを古河公方(足利氏成)との対抗上、江戸に移したのは翌年のこと、江戸城は一ヵ年でほぼ完成をみている。

この城は、それまでの城山(山塞規模)の発想から大きく転換して、平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)をきずいて、複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城であった。

道灌は、三百年も以前から豪族・江戸氏が居城としていたものを利用して、これに独創的な改築を施したのである。

この時代、利根川は現在とは異なり、荒川に合流していて、末は隅田川となって江戸湾にそそいでいた。

すでに有名無実化していた堀越公方(足利知)はひとまず措き、もう一方の古河公方(足利成氏)はこの利根川の東に城砦をかまえ、相対する管領・上杉氏は同じ川の西側に、飛び石のように城砦を築いていた。

つまり、双方の決戦はその中間地帯でくりひろげられていたことになる。

道灌の属した関東管領方の動員兵力は、山内・扇谷の両上杉家を合計してこの時期、二、三千程度であったかと思われる。

兵力では上杉氏がまさっていたが、古川公方成氏は古河の城をかためて終始、守勢を固持したので、一挙に攻め落とすことができなかった。

こうしたいわば睨み合いの局面で、三十四歳の道灌は上洛している。

ときの十一代将軍・足利政義は、道灌の高い学識と名声をすでに聞き及んでおり、とくに拝謁を許可した。

のちに銀閣寺(恩寺慈)となる、東山殿を造営した人物である。

将軍義政は道灌に、武蔵野の見渡すかぎりの荒野、広がる鄙びた土地の風景について質した。

義政には後進地の関東に対する、あからさまな侮蔑があったようだ。

その胸中を感じとった道灌は、ならば、と即興の歌を詠んで応じた。

わが庵は松原つづき海近く 富士の嶺高を端軒にぞ見る

もとより、将軍義政にも歌心はある。

のちの織田信長が、芸術の手本としたほどの人物だ。

道灌の和歌に義政は、武蔵野の贅沢な景色を想い、なるほど、と頷いたという。

思うに道灌は、この上京で硬直した関東の戦局を、将軍家のご威光=外交によって、打開しようとしたのではあるまいか。

味方は道灌に大いに期待し、決して嫉妬心などおこさなかった。

一方、敵の古川公方成氏は、この英才にかかっては衰亡するしかない、との危機感を抱き、窮鼠猫を咬むで、いきなり打って出て来る。

寛正七年(一四六六・二月二十八日に「文正」と改元)正月のことであった。

受けて立つ関東管領側には、余裕すらうかがえたが、折り悪しく山内上杉家の当主・顕房が病死してしまう。

跡を継いだ二男の定顕は、この時わずかに十三歳でしかなかった。

そこへ文正元年九月に、扇谷上杉家の当主・朝持の病死が重なった(後継は嫡男・顕房の子の真政)。

さらには駄目押しのように、翌年には京都を中心に日本史上空前の内乱=応仁の乱が、全国に勃発する(以後、十一年つづき、その終息後、世の中は戦国時代に突入する)。

この時、関東地方は、秩序不安定の中に孤立してしまった、といってよい。

当主の相次ぐ死により、関東管領を実質的に采配することになったのが、実力ナンバーワンの山内上杉家の家宰・長尾信景であった。

景信は年若い主君の顕定をよく補佐し、同盟軍ともいうべき扇谷上杉家の家宰・太田道灌とも綿密に連携したが、関東争乱の最中に道灌の主で扇谷上杉家の当主・上杉真政が戦死し、政真の叔父・定正(持朝の三男)が三十一歳で扇谷上杉家を継承。

つづいて景信本人も、六十一歳で病没してしまう。

主人の顕定は、しかたなく景信の弟・景忠を引きあげて、山内上杉家の家宰とした。

つまり、ほんのわずかな期間に、道灌を信任してきた関東管領首脳部が、すべてこの世を去り、上層部は総入れ替えとなってしまった。

旧首脳部の中での残留者は、太田道灌ただ一人となる(四十二歳)。

組織は変わり目があぶない

ここが、〝切要〟であった。

この人事一新が、結果的に道灌の悲劇な最期を生む遠因となる。

現代のビジネスマンの世界であれば、人々は自己の社会的評価に執着する。

レベルは自分より下だと思い込んでいた同僚や後輩が、いきなりプロジェクトで抜擢されたり、「主任」「係長」「課長」「部長」に昇進したりすれば、そこに嫉妬は生まれるもの。

これは人生のかかった出世レースにおける、上昇か停滞(もしくは左遷)にかかわることであるだけに、一面、処何にても必死=プロセスで嫉妬の発生が考えられた。

しかし道灌の時代は、身分を超えての上昇はそもそもなかった。

関東管領の家宰はこの地位しかない。

下剋上は始まっていたが、権威と権力はまだまだそれなりに守られていた。

にもかかわらず、道灌はこのあと非業の最期を遂げる。なぜか。

主因は意外にも、組織のやる気にあった。

組織はつねに、首脳部が一新されると、いつの時代でも、いかなる団体でも、構成員はやる気まんまんとなる。

また、そうでなければならない側面もあった。

関東管領の陣営では、「今度こそ、古河公方を討つ」と鼻息も荒く、これまでにも増して攻勢を仕掛けたが、散発的で計画性の乏しい戦は、むろん埒があかない。

これまで戦ってきた道灌は、いわば現場を周囲の誰よりもよく知る立場にあった。

当然の如く彼は、懸命にその愚を諫め、やめるようにと説得するのだが、一同には聞く耳がない。

それどころか、道灌の物言いが癪にさわるありさま。

彼らは上位階級ゆえに、その権威をもって道灌に一物を抱くようになる。

「たかが扇谷上杉家の、しかも家宰の分際で、何を偉そうに―」と。

そうしたところへ、山内上杉家の先代家宰をつとめた長尾景信の子・春景(三十四歳)が、己れをないがしろにした人事に不満をつのらせ、主君の顕定に叛旗を翻し、古河公方成氏に味方する旨の密書を、関東管領方の諸将におくる事件が発覚した。

これも、嫉妬が原因であった。

もともと長尾氏は、相模国鎌倉郡長尾郷(現・神奈川県横浜市栄区=鎌倉市の北方)を発祥とする桓武平氏の流系といわれ、上杉家同様に白井・惣・鎌倉・足利の四長尾氏に分かれて広がった一族であった。

山内家の始祖・顕憲が上野国(現・群馬県)の守護となったころ、各々の長尾氏も上野国に移り住んだ。すでに山内上杉氏の家臣筆頭=家宰は長尾氏であり、その長尾氏にあって白井長尾が一族の宗家の地位に定まっていた。

余談ながら、この一族から分かれてのちに越後長尾氏が生まれ、越後守護上杉氏の筆頭家老となって、ここから長尾虎景が出現し、彼がのちに改姓改名して上杉謙信となった。

さて、景春である。

彼が謀叛にふみ切ったのは、彼こそが白井長尾氏の嫡流であったからで、叔父の忠景は傍系でしかない。

にもかかわらず、宗家に取ってかわるとは......。

叔父に激しく嫉妬した景春は、憤り、ついには武力行使に出たのだが、実はこの騒動には、主君・山内上杉顕定の思惑がその背景に隠れていた。

ライバルの扇谷上杉家において、道灌が突出しているように、山内上杉家においては白井長尾氏がすでに仲景、景信と二代にわたって実権を握ってきた。

このとき、二十歳を越えた顕定にすれば、これ以上の白井長尾氏の勢力強大化は、自家(山内上杉家)にとって憂慮に耐えない状況と、映っていたのだ。

そこで景信の死を機会に、惣社長尾氏からの家宰任用にあえて踏み切ることで、双方の長尾氏の勢力を互いに制牽させ、かけ合わせ、ともに弱らせようとの策謀が働いていた。

加えて、長尾氏の隆盛を心よく思わない、山内家の奉行・寺尾入道、野佐渡守といった実力者も、顕定に噛み合わせを進言したという(『松陰私語』)。

上司はできる部下が、いつの時代も恐ろしいのである。

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日本人の嫉妬深さがよく分かる・・・現代社会にも通じる人間関係など、「嫉妬」を5つのテーマに分類して紹介されています

 

加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪府生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学研究員を経て歴史家・作家として活動。大学や企業で講師を務める傍ら、独自の視点で日本史を考察、研究。著書に、『「図説」生きる力は日本史に学べ』(青春出版社)、『刀の日本史』(講談社)など多数。

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『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』

(加来耕三/方丈社)
「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」など歴史的な事件の数々を、その当事者たちの行動や発言から著者独自の史観で考察された一冊。事件をのぞいて見れば、「他者への嫉妬」が渦巻いていたという驚愕の事実が…。嫉妬深い日本人の民族性や、だからこそ作り上げられた文化、さらには歴史的人物たちが抱いた当時の思いにも触れられます。

※この記事は『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社) からの抜粋です。

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