織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!
嫉妬をかわした秀吉
武田氏を撃滅した織田信長は、方面軍司令官の一人・佐久間信盛を追放して、五方面軍となった各司令官をフルに稼動させ、うち筆頭家老の柴田勝家を越後(現・新潟県)の上杉景勝(謙信の養子)に対峙させ、武田氏滅亡で著しく反織田勢力が弱まった関東には滝川一益をすえた。
そのうえで中国、四国の征討に主力軍の鉾先を転換。
四国には三男の信孝に、最高幹部の一人・丹羽長秀をそえ、中国地方はすでに天正四年(一五七六)以来、方面軍司令官として羽柴(のち豊臣)秀吉を抜擢投入、着々と成果をあげていた。
それに連動して明智光秀はつづく山陰からスタートする、九州征伐を担当する予定となっていたのだが......。
「人間は地位が高くなるほど、足もとが滑りやすくなる」(タキトゥス『年代記』)
筆者が興味深いのは、このおり備中高松城(現・岡山県岡山市北区)を囲んで、これを水攻めにしていた秀吉である。
彼は自己の軍勢二万七千五百余だけでも、中国地方の攻略は可能だ、と値踏みしていたにもかかわらず、あえて、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景ら毛利氏の主力軍が、あげて高松城救援に押し寄せてくるので後詰めを、と安土(現・滋賀県近江八幡市)へ援軍要請をし、急ぎの信長自身の出馬を請うた。
秀吉は〝緑色の目をした怪物〟―この場合では、信長の嫉妬をよく理解していた、と見るべきである。
乱世は終焉に向かっていた。この先、毛利の五万余と雌雄を決するような、華々しく大きな舞台=合戦が、さて、どれほど戦国日本に残されていたであろうか。
その大舞台に秀吉が立って武功を輝かせれば、主君信長は何と思うか。
さすがに苦労人の秀吉は、その心中を読むことを心得ていた。
織田家に、スターは二人いらないのだ。
大功を主君に奉ってこそ、臣下の者は可愛がられるもの。
今も昔も、人間の嫉妬は自分が周囲からどのように評価されているか、を中心に展開される。
自分の才能、能力が他人の目にどのように映っているのか、自分はどのような位置を占めているのか、人は絶えず意識するもの。
ましてや組織(会社)では、自分への評価が昇進・出世・経済的充実につながってしまう。
なかでも上司の自分への評価は、人事異動を考えればなおさら重大である。
秀吉は信長の草履とりからスタートしたため、気軽に主君から声をかけられることも少なくなかった。
周囲のやっかみは、想像を越えたものであったろう。
にもかかわらず......、なぜ、秀吉は周囲の嫉妬の炎で焼き殺されず、生き残り得たのか。
〝ときは今―〟、嫉妬爆烈
「敖(おごり)は長すべからず、欲は従(ほしいいまま)にすべからず」と五経の一(いつ)・『礼記(らいき) 』にある。
「敖」とは傲慢、自分の能力や地位、成果をもって他人を見下すこと。
こういう気持ちは、おのずから表情や態度に現われるものだ。
「欲」の追求も同じで、ほどほどを心がけてはいても、つい表に出てしまうもの。
高い評価を受けた人間は登用されるが、登用というプラスの裏には、他人からの激しい嫉妬を向けられるというマイナスが生じている。
まして職場は各々、生活経験の異なる人々が集まって、一つの仕事をこなすところ。
しばしば、緊張感に襲われる場所である。
秀吉は周囲の目を常に意識し、自らが嫉妬されるような事態を極力避ける努力をしていた。
彼は自らの大功を主君信長に譲って、「敖」と「欲」を捨て、安心と寵用(愛されて取り立て用いられる)を得たのである。
「天の与ふる所に候」
信長は秀吉の心中を、愛(う)いやつと思いつつ、自らの出陣を快諾した。
おりから、駿河一国(現・静岡県中部)の領地加増の御礼を述べるべく、安土へ伺候していた徳川家康の饗応役を解任された光秀は、丹波攻略以来、信長にすれば休息を与えてやった、との思いもある。
秀吉救援のための先陣を光秀に命じ、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀ら畿内の諸将に、にわかの出陣命令を発した。
信長には、自分が戦地に到着するまで、秀吉は決戦は仕掛けたりはしないことが知れていたであろう。
すでに天下統一に王手のかかっている、信長には余裕があった。
同盟者の家康に対しては、安土まで来たついでに京、奈良、堺などをゆっくり見物してはどうか、とすすめ、自らは五月二十九日、わずか二、三十人の供回りを率いて上洛。
西洞院小川の本能寺に入った(総勢百五十人~百六十人とも)。
この寺は、日蓮を宗祖とする本門法華宗五大本山の一つであり、当時の信長の、京都滞在中の定宿として、周囲の町屋を退去させ、四方に掻(かき)き上げの堀をめぐらし、内側には土居 (防御のための土塁)を築き、木戸を設け、厩舎まで造るなど、小城郭の構えを備えてはいた。
が、皮肉なことに、この時ほど、京都の警戒が手薄であったことは、永禄十一年(一五六八)の信長上洛以来なかった(大規模な造営を終えてから、信長が本能寺に宿泊するのは二度目)。
「人生の大病は、ただこれ一の傲(ごう)の字じなり」(王陽明『伝習録』)
「傲」=「敖」については、前述した通りである。陽明もこれこそが、人生最悪の病気だ、と断じていたが、この諸悪の根源から秀吉のように、するりと逃れることは難しい。
勝者ほど、成功者ほどかかりやすい、〝大病〟といえた。
信長も、決して例外ではなかったろう(それは晩年の秀吉も同断であった)。
同じころ、嫡子・織田信忠も上洛してきた。
こちらも手勢わずかに三百ばかりで、衣棚押小路(ころものたなおしこうじ)の妙覚寺に止宿(ししゅく)している。
信長は出陣までの数日間を、後継者の信忠とともに、好きな茶の湯でも楽しむつもりでいたようだ。
信長は、光秀の追いつめられた心情をまったく理解していなかった。
もしかすると、光秀を叱責したことすら、ストレートに怒りをぶつけて、そのまま忘れてしまっていたかもしれない。
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上司は存外、部下に屈辱を与えたことを忘れやすいもの。
しかし、やられた方は決して忘れていないものだ。
現に、信長の最後の一日がやって来た。
六月一日、二月に太政大臣になったばかりの近衛前久をはじめ、勧修寺晴豊ら四十人もの公家衆、僧侶、地下衆(地元の人)が、信長のもとを訪れて、茶の湯のもてなしを受けている。
茶会の済んだあと、信長は寂光院の日海(のちの本因坊算砂)と鹿塩利賢(かしおりげん)の、囲碁の対局をみ、息子の信忠、京都所司代の村井貞勝を相手に、うちとけた内輪の楽しい一刻を過ごして、やがて寝所に入った。
相前後して、西へ向かって進んでいるはずの光秀の軍勢一万三千が、現在の午後六時、丹波亀山城(現・京都府亀岡市)を出発し、山城国(現・京都府南部)と丹波国の国境、老ノ坂を越えて沓掛(現・京都市右京区)にいたり、やがては桂川の岸に迫ろうとしていた。
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