判断基準は「語構成の明瞭さ」
では、「一本釣り」は「いっぽんづり」なのに、「稲妻」は「いなずま」となっているのはなぜでしょうか。それは、現代日本語として「語構成」がどの程度はっきりしているか、という判断によります。
「一本釣り」は「一本ずつ釣ること」、「鼻血」は「鼻から出る血」のことです。ですから「いっぽんづり」を「いっぽん+つり」に、「はなぢ」を「はな+ち」に分解することは非常にたやすいことです。このような語の場合、「語構成」は極めて明瞭である、ということができます。
一方「稲妻」はどうでしょう。「稲と雷とが交わることで稲穂が実る」という古い信仰は、現代の日本人にとって決してなじみの深いものではありません。特別な知識がなければ、「稲妻」の「稲」と「妻」がどういう関係にあるのか、非常に分かりにくいのではないでしょうか。
こういう場合、「いね+つま」という語構成は必ずしも明瞭であるとはいえません。そこでこれ全体で不可分の1語と考え、冒頭に挙げた原則どおり「ず」を用いて「いなずま」と表記することにしているのです。
しかしこのようにいうと、「いや、自分にとって『稲妻』が『いね+つま』であることは、漢字表記からいって明らかなことで、『いなずま』という表記にはどうしても違和感がある」という反論もあることでしょう。
それはまさにもっともな反論です。そもそも、「語構成が明瞭かどうか」という判断自体、幅のあるものですので、「明瞭か不明瞭か」という一線がきっちりと引けるものではありません。「語源」をどの程度重視すべきか、という考え方も、人によって大きく異なることでしょう。
このように、「いなずま」・「いなづま」、いずれの表記にもそれなりの理があり、どちらがより正しいとはいえません。ことばは、常にたった一つの正しい形が決まっている(誰かが決めてくれている)というわけでは決してないのです。
実は内閣告示でも、「稲妻」は「いなずま」と書くのを本則としながらも、「いなづま」と「書くこともできるものとする」と明記されています。このような語にはほかに、「さかずき←酒(さけ)+杯(つき)」「くんずほぐれつ←くみつほぐれつ」などがあります。「さかずき/さかづき」「くんずほぐれつ/くんづほぐれつ」、いずれの表記も誤りではありません。