織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!
老成者・老人も嫉妬する
人間、年をとると食べ物の好みがあっさりと淡白になるように、人柄も全体に枯れるもの、との思い込みが一般にはある。
嫉妬などという生な感情とは無縁となる、と信じている人もいるようだが、これは明らかな誤解であろう。
老成者も老人も、むしろ年齢と共に不平・不満は募り、他人に嫉妬する傾向が強かった。
とくに気力、体力の衰えが自覚されるようになると、嫉妬の炎は生活の変化とともに燃え立った。反省、過去への追憶が、多くの悔いにつながっていくからである。
世の中で後悔のない一生を送れた人は、老成なり老人となる現実をそのまま素直に受容できる人であろう。
天智天皇や天武天皇、北条早雲や織田信長あたりは、やるだけのことは精一杯やった、との自負心があり、自分の切り開いた未来=過去も=人生にも、後悔などなかったかもしれない。
だが大半の人間―歴史上の人物も―は、過去に残してきたたくさんの悔いを、老いてからもてあますもの。
もっといい仕事(質量ともに)をしたかった、もっと上の地位につきたかった、もっとすてきな異性と交際したかった、もっとすばらしい相手と結婚したかった、もっといい家庭を築きたかった―さまざまな心残りが、脳裏を去来する。
そうした老いた自分の目前で、こちらの後悔をたやすく否定するように―多くの場合は、若い世代―が、これみよがしにあれこれ実践してみせると、目撃あるいは見聞すればするほど、すべてが癪の種となって、ここに嫉妬が頭をもたげてくる。
ラ・ロシュフコーはいっていた。
「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」(『箴言集』)
現代社会にも、同質の人=老いてなお嫉妬深い性格のため、嫌われる人がいる。
とくに公務員、サラリーマンで、定年退職後に経済力が低下したり、病気のあと気弱となって、家族の〝家長〟としての立場を失った(あるいは放棄した)人の中に、「今どきの若いものは......」と呟く人は、腹中にいくつもの不平・不満をかかえていることが少なくない。
極論すれば、心に余裕(社会的、経済的、経験面)のない親は、自分の子供に対してすら嫉妬する。
外に対する内――家族感情は強い結びつきをもつものだが、家庭・家族においてはかならずしも一枚岩とはいかない。
すべての国家、組織がそうであるのと同じように。
一般的に、親は老いてくると、この人間の必然性=衰退に対する運命が、そのままに容認できなくなる。
思い切る、悟る以外に解決策はないのだが、なんとかならないものか、とここでもがき苦しみ、それが原因で欲求不満となった。配偶者、息子や娘に、言葉に出して説明できないもどかしさが蓄積されていく。
そうしたおりに、ふと息子や娘が無遠慮な若々しさ、輝くばかりの可能性を誇示したりすると、いまいましくてたまらなくなる。
それが重なると、親は自分のことばかりを考えるようになり、子供を他人としてしかとらえられなくなってしまう。
たとえば子が、成功話や出世話などをすると、かつては小学校などで、良い成績をとって自慢すれば喜んでくれた親が、即「私がお前と同じ歳のころはな―」とか、「一度や二度の成功でうぬぼれるな、たまたま運がよかっただけだ」と、落ち目になった自分の尺度で批判をするようになる。
そういえば、天下人となった徳川家康にも、この老人ゆえの嫉妬は存在した。
最もよく表れているのが、沢贅に関する妥協なき彼の態度であった。
将軍職を息子の徳川秀忠にゆずり、〝大御所〟となった家康は、拗執に質素倹約の徹底を命じている。
主旨は、次のようなものであった。
太廈千間夜臥(たいかせんげんやが)八尺、良田萬傾日食二升(りょうでんばんけいなるもひににしょうをしょくす)とて、千畳敷萬畳敷(せんじょうじきまんじょうじき)の家をもちても、臥するところは一畳なり。また前に八珍をつらぬるといへども、食するところは、口にかなふもの二三種に過ぎず。天下の主にても、つづまるところは唯一飯より外は用なし。しかるに何ぞや民を苦しめ、ひたすらに身の栄耀(えいよう)を好み、金銀をたくはへ、身に代る家人(けにん)たちを思ひつかざるは愚なる事なり。(『醒提紀談』)
家康の愚痴は、一見、もっともらしい。
いかに大きな屋敷に住まおうとも、寝るのには一畳あれば事足りる。
また、どれだけ珍味の料理を並べられても、食べる量は知れているものだ。
天下人といえども、結局のところご飯さえあれば、ほかにこれといって必要なものはない。
にもかかわらず、一身の栄華や富貴を望んで、民を苦しめ家人のことを思いやらぬほど、愚かなことはない、と隠居した天下人はいうのである。
なぜこの発言が、老人特有の愚痴となるのか。
嫉妬が起きるのは、かけがえのないものを失ったり、失いそうになったときだ。
家康、贅沢と戦う
三河(現・愛知県東部)の片田舎から出発した家康が、曲がりなりにも天下を取れた原動力は、粗食に耐え、質実剛健の生活を維持した、戦国屈指の〝三河武士団〟があればこそであった。
ところが皮肉にも、戦乱の世を終わらせ、泰平の世を開いたことが、結果として家臣団の生活を充実、向上させることにつながってしまった。
なにしろ、徳川家が天下を取ったのであるから。
旗本たちは当然のごとく、その栄耀栄華を享受しようとした。
散々、苦労してきた家康にすれば、これほど腹立たしいことはなかったろう。
嫉妬は、大義名分=「合理化」を持つもの。
「このままでは、純朴な三河の気風が失われる」
彼は起躍となって吝嗇を説き、粗食を率先推奨した。
とくに、具体的に用いたのが麦飯であった。
駿河に隠居していた家康は、鷹狩りのおりなどに、あえて周囲にこれみよがしに麦飯を持参した。
周囲へのデモンストレーションといっていい。
効果は上々で、彼の麦飯は当時、相当に有名となっていた。
これにまつわる挿話も、数多く残されている。
たとえば、あるとき鷹狩りに出た家康が、ときおり囲碁の相手を命じる瀧善左衛門という、商人の家の前を通りかかった。
供につれて行こうと思い立ち、ふいに立ち寄ると、おりしも瀧家では食事の最中であった。
家康はこの時、食卓の内容を目撃したようだ。
鷹狩りの供に善左衛門をともなわず、翌日、囲碁の相手に彼がまかり出ると、家康はいつになく不機嫌で、その方の家のこれからは覚束ないぞ、といい出した。
そして、付言して、「白米の飯を食べるような心得では、先が思いやられるわ」と、さも憎々しげにいったという。
善左衛門はそれを聞いて、さては......と、とっさに昨日の食卓を思い出した。
麦飯を食さず、白米を食べていたのだ。
そこで、「昨日のあれは白米ではなく、豆腐滓をかけた麦飯でございました」といったところ、家康の機嫌がなおったという。
徳川家康は明らかに成功者であり、傍目には幸福な老人と見えたであろう。
しかし、それでも老いはくやしさ、悲哀と嫉妬をもたらすものなのである。
九死に一生のような生涯をたどり、ようやく天下統一ができたかと思うと、なんの力も貸さず、ようやく手にした実だけを食べてしまう若い旗本たち――家康はこの怒りを、贅沢撲滅に向けた。
だが、いかに彼が声を嗄(か)らせて孤軍奮闘しても、時勢そのものには勝ちようがなかった。
人は一度手にした贅沢を、手放したりはしない。
皮肉にも、泰平の出現は物資の往来を活性化し、街道、海路は整備され、人々の往来は頻繁となって、その結果、質量において人々の生活は、嫌がうえにも向上していった。
家康にとどめをさしたのが、南蛮・紅毛貿易による品々であった、と筆者は見ている。
煙草や絹、菓子(金ぺい糖、カステラ、パン、ボーロ、ビスケット)、ぶどう酒のみならず、南瓜、砂糖、こしょう、唐辛子――云々。
その多くは、ポルトガル、スペイン、のちにはイギリス、オランダの商人たちがもたらした高価な品々であり、それらの未知なる品や味は瞬く間に日本中を席巻、魅了した。
なんのことはない、「贅沢は敵だ」と唱えつづけた家康ですら、その死後の財産分与をみると、多くの南蛮品に親しんでいたことが知れる。
いかに天下人が嫉妬しても、時勢――〝美味〟も含め――には、勝てなかったということになろうか。
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