老人ならでは嫉妬心? 天下人・徳川家康「贅沢は敵だ!」の真意とは

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!

老人ならでは嫉妬心? 天下人・徳川家康「贅沢は敵だ!」の真意とは pixta_44141764_S.jpg

老成者・老人も嫉妬する

人間、年をとると食べ物の好みがあっさりと淡白になるように、人柄も全体に枯れるもの、との思い込みが一般にはある。

嫉妬などという生な感情とは無縁となる、と信じている人もいるようだが、これは明らかな誤解であろう。

老成者も老人も、むしろ年齢と共に不平・不満は募り、他人に嫉妬する傾向が強かった。

とくに気力、体力の衰えが自覚されるようになると、嫉妬の炎は生活の変化とともに燃え立った。反省、過去への追憶が、多くの悔いにつながっていくからである。

世の中で後悔のない一生を送れた人は、老成なり老人となる現実をそのまま素直に受容できる人であろう。

天智天皇や天武天皇、北条早雲や織田信長あたりは、やるだけのことは精一杯やった、との自負心があり、自分の切り開いた未来=過去も=人生にも、後悔などなかったかもしれない。

だが大半の人間―歴史上の人物も―は、過去に残してきたたくさんの悔いを、老いてからもてあますもの。

もっといい仕事(質量ともに)をしたかった、もっと上の地位につきたかった、もっとすてきな異性と交際したかった、もっとすばらしい相手と結婚したかった、もっといい家庭を築きたかった―さまざまな心残りが、脳裏を来する。

そうした老いた自分の目前で、こちらの後悔をたやすく否定するように―多くの場合は、若い世代―が、これみよがしにあれこれ実践してみせると、目撃あるいは見聞すればするほど、すべてが癪の種となって、ここに嫉妬が頭をもたげてくる。

ラ・ロシュフコーはいっていた。

「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」(『箴言集』)

現代社会にも、同質の人=老いてなお嫉妬深い性格のため、嫌われる人がいる。

とくに公務員、サラリーマンで、定年退職後に経済力が低下したり、病気のあと気弱となって、家族の〝家長〟としての立場を失った(あるいは放棄した)人の中に、「今どきの若いものは......」と呟く人は、腹中にいくつもの不平・不満をかかえていることが少なくない。

極論すれば、心に余裕(社会的、経済的、経験面)のない親は、自分の子供に対してすら嫉妬する。

外に対する内――家族感情は強い結びつきをもつものだが、家庭・家族においてはかならずしも一枚岩とはいかない。

すべての国家、組織がそうであるのと同じように。

一般的に、親は老いてくると、この人間の必然性=衰退に対する運命が、そのままに容認できなくなる。

思い切る、悟る以外に解決策はないのだが、なんとかならないものか、とここでもがき苦しみ、それが原因で欲求不満となった。配偶者、息子や娘に、言葉に出して説明できないもどかしさが蓄積されていく。

そうしたおりに、ふと息子や娘が無遠慮な若々しさ、輝くばかりの可能性を誇示したりすると、いまいましくてたまらなくなる。

それが重なると、親は自分のことばかりを考えるようになり、子供を他人としてしかとらえられなくなってしまう。

たとえば子が、成功話や出世話などをすると、かつては小学校などで、良い成績をとって自慢すれば喜んでくれた親が、即「私がお前と同じ歳のころはな―」とか、「一度や二度の成功でうぬぼれるな、たまたま運がよかっただけだ」と、落ち目になった自分の尺度で批判をするようになる。

そういえば、天下人となった徳川家康にも、この老人ゆえの嫉妬は存在した。

最もよく表れているのが、沢贅に関する妥協なき彼の態度であった。

将軍職を息子の徳川秀忠にゆずり、〝大御所〟となった家康は、拗執に質素倹約の徹底を命じている。

主旨は、次のようなものであった。

太廈千間夜臥(たいかせんげんやが)八尺、田萬傾日二升(りょうでんばんけいなるもひににしょうをしょくす)とて、千畳敷萬畳敷(せんじょうじきまんじょうじき)家をもちても、臥するところは一畳なり。また前に八珍をつらぬるといへども、食するところは、口にかなふもの二三種に過ぎず。天下の主にても、つづまるところは唯一飯より外は用なし。しかるに何ぞや民を苦しめ、ひたすらに身の耀(えいよう)を好み、金銀をたくはへ、身に代る人(けにん)たちを思ひつかざるは愚なる事なり。(『醒提紀談』)

家康の愚痴は、一見、もっともらしい。

いかに大きな屋敷に住まおうとも、寝るのには一畳あれば事足りる。

また、どれだけ珍味の料理を並べられても、食べる量は知れているものだ。

天下人といえども、結局のところご飯さえあれば、ほかにこれといって必要なものはない。

にもかかわらず、一身の栄華や富貴を望んで、民を苦しめ家人のことを思いやらぬほど、愚かなことはない、と隠居した天下人はいうのである。

なぜこの発言が、老人特有の愚痴となるのか。

嫉妬が起きるのは、かけがえのないものを失ったり、失いそうになったときだ。

家康、贅沢と戦う

三河(現・愛知県東部)の片田舎から出発した家康が、曲がりなりにも天下を取れた原動力は、粗食に耐え、質実剛健の生活を維持した、戦国屈指の〝三河武士団〟があればこそであった。

ところが皮肉にも、戦乱の世を終わらせ、泰平の世を開いたことが、結果として家臣団の生活を充実、向上させることにつながってしまった。

なにしろ、徳川家が天下を取ったのであるから。

旗本たちは当然のごとく、その栄耀栄華を享受しようとした。

散々、苦労してきた家康にすれば、これほど腹立たしいことはなかったろう。

嫉妬は、大義名分=「合理化」を持つもの。

「このままでは、純朴な三河の気風が失われる」

彼は起躍となって嗇を説き、粗食を率先推奨した。

とくに、具体的に用いたのが麦飯であった。

駿河に隠居していた家康は、鷹狩りのおりなどに、あえて周囲にこれみよがしに麦飯を持参した。

周囲へのデモンストレーションといっていい。

効果は上々で、彼の麦飯は当時、相当に有名となっていた。

これにまつわる挿話も、数多く残されている。

たとえば、あるとき鷹狩りに出た家康が、ときおり囲碁の相手を命じる善左衛門という、商人の家の前を通りかかった。

供につれて行こうと思い立ち、ふいに立ち寄ると、おりしも瀧家では食事の最中であった。

家康はこの時、食卓の内容を目撃したようだ。

鷹狩りの供に善左衛門をともなわず、翌日、囲碁の相手に彼がまかり出ると、家康はいつになく不機嫌で、その方の家のこれからは束ないぞ、といい出した。

そして、付言して、「白米の飯を食べるような心得では、先が思いやられるわ」と、さも憎々しげにいったという。

善左衛門はそれを聞いて、さては......と、とっさに昨日の食卓を思い出した。

麦飯を食さず、白米を食べていたのだ。

そこで、「昨日のあれは白米ではなく、豆腐滓をかけた麦飯でございました」といったところ、家康の機嫌がなおったという。

徳川家康は明らかに成功者であり、傍目には幸福な老人と見えたであろう。

しかし、それでも老いはくやしさ、悲哀と嫉妬をもたらすものなのである。

九死に一生のような生涯をたどり、ようやく天下統一ができたかと思うと、なんの力も貸さず、ようやく手にした実だけを食べてしまう若い旗本たち――家康はこの怒りを、贅沢撲滅に向けた。

だが、いかに彼が声を嗄(か)らせて孤軍奮闘しても、時勢そのものには勝ちようがなかった。

人は一度手にした贅沢を、手放したりはしない。

皮肉にも、泰平の出現は物資の往来を活性化し、街道、海路は整備され、人々の往来は頻繁となって、その結果、質量において人々の生活は、嫌がうえにも向上していった。

家康にとどめをさしたのが、南蛮・紅毛貿易による品々であった、と筆者は見ている。

煙草や絹、菓子(金ぺい糖、カステラ、パン、ボーロ、ビスケット)、ぶどう酒のみならず、南瓜、砂糖、こしょう、唐辛子――云々。

その多くは、ポルトガル、スペイン、のちにはイギリス、オランダの商人たちがもたらした高価な品々であり、それらの未知なる品や味は瞬く間に日本中を席巻、魅了した。

なんのことはない、「贅沢は敵だ」と唱えつづけた家康ですら、その死後の財産分与をみると、多くの南蛮品に親しんでいたことが知れる。

いかに天下人が嫉妬しても、時勢――〝美味〟も含め――には、勝てなかったということになろうか。

2020年大河の背景も見えてくる「日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく」記事リストはこちら!

老人ならでは嫉妬心? 天下人・徳川家康「贅沢は敵だ!」の真意とは 073-nihonshihashitto-syoei+.jpg

日本人の嫉妬深さがよく分かる・・・現代社会にも通じる人間関係など、「嫉妬」を5つのテーマに分類して紹介されています

 

加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪府生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学研究員を経て歴史家・作家として活動。大学や企業で講師を務める傍ら、独自の視点で日本史を考察、研究。著書に、『「図説」生きる力は日本史に学べ』(青春出版社)、『刀の日本史』(講談社)など多数。

073-nihonshihashitto-syoei++.jpg

『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』

(加来耕三/方丈社)
「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」など歴史的な事件の数々を、その当事者たちの行動や発言から著者独自の史観で考察された一冊。事件をのぞいて見れば、「他者への嫉妬」が渦巻いていたという驚愕の事実が…。嫉妬深い日本人の民族性や、だからこそ作り上げられた文化、さらには歴史的人物たちが抱いた当時の思いにも触れられます。

※この記事は『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社) からの抜粋です。

この記事に関連する「趣味」のキーワード

PAGE TOP