天下分け目の関ヶ原、その後・・・「嫉妬心」で人生狂わせちゃった猛将・福島正則の悲しい話

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!

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利用された福島正則の嫉妬

嫉妬のプラスマイナスについて――活躍している同輩や後輩をみて、いささかの焦りを感じながら、「負けてたまるものか」と、嫉妬を自らの起爆剤とすることは、大いに推奨されてしかるべきである。

チャレンジする力に転化できれば、嫉妬は有益となる。
だが、度を越して激しすぎる嫉妬(競争も)は、その業火で相手を滅ぼし、ついにはわが身をも返り血を浴びるように、破滅の途に導いた。とくに他人(第三者)に嫉妬を利用された場合、悲惨な終幕を迎えることが少なくなかった。
たとえば、関ヶ原で石田三成とはり合った、尾張清洲城主で二十四万石を拝領していた福島正則、彼もその一人であった。
正則は三成への嫉妬に目が眩み、三成のみならず、結果として主家の豊臣家を滅ぼし、自らをも滅亡の淵に追い込んでしまう。
慶長五年(一六〇〇)七月二十二日、正則は徳川家康の上杉景勝討伐(関ヶ原の前哨戦)に参加すべく、下野の小山(現・栃木年小山市)に着陣した。
ところが翌日、家康からは討伐中止の命令が届く。
上杉征伐で家康が畿内を留守にしたところ、居城・佐和山城に蟄居していたはずの石田三成が、仲間を糾合し、家康討伐のため挙兵というのだ。

二十五日、緊急の軍議が開かれたが、上杉征伐に動員された諸侯は、突然の出来事に困惑するのみで、家康につくべきか、それとも三成の許へ走るべきか、動揺は広がっていた。
なにしろ家康について、三成と戦うことになれば、大坂城にある主君・豊臣秀頼に弓を引くことになりかねない。
諸侯の心情は、この一点について悲痛であった。
妻子も人質として、大坂に暮らしていた。
軍議の席は、深く重い沈黙に支配される。
もし、この空気がつづけば、上杉征伐はここで中止→征伐軍は解散→各々の去就を各々で決断するという、分散が広がる方向へ軍議は流れたであろう。
そうなれば、さしもの家康も窮地に陥ったかもしれない。
ところがこの沈黙を破って、唐突に立ち上がった男がいた、正則である。
「この度の上方における挙兵は、三成らの策謀によるものであり、秀頼公にはなんの関係もありはせぬ。それがし、内府 (家康)どのに進んで荷担つかまつる」
諸将の間に、どよめきが起こった。安堵の声といってもよい。なぜか。
正則の戦歴が豊臣家中で最も古く、石高もそれなりに高い。
何よりも彼は、亡き主君秀吉とは母方の従兄弟関係にあたった。
この代表的な秀吉子飼い=豊臣恩顧の武将が、家康につく、と口火を切ったのである。
幼少の頃から秀吉の許で育てられ、秀吉が柴田勝家を降した賤ヶ岳の戦いでは、"七本槍"の筆頭にあげられて一躍、五千石の加増を得た前歴が正則にはあり、なお、同輩の加藤清正(秀吉の又従兄弟)共々、二人は豊臣政権を担う武断派の首領株でもあった。
この両名が、三成ら文治派と妥協する道を探っていれば、豊臣政権の寿命は大きく伸びたはずである。
二人は、戦には大いに役に立った。
戦場に臨めば正則も清正も、他人には決してひけをとらない。
どのような厳しい戦局にあっても、父にも等しい秀吉の賛辞を得たい一心から、二人は無邪気なまでに懸命に働いた。
だが、秀吉が天下を取り、豊臣政権が安定してくると、戦そのものがなくなり、戦場中心主義の武断派の存在は、目立って影が薄くなる。
清正は辺境の肥後熊本に、一方の正則も賤ヶ岳の後、近江栗太郡、河内(現・大阪府南東部)八上郡内に封じられ、小牧・長久手の戦い後は、伊予国五郡十一万三千二百石、九州征伐では清正同様に肥後に追いやられかけて、文禄四年(一五九五)にようやく、尾張清洲城に二十四万石の抜擢をうけた。
秀吉の狙いは、万一、家康が箱根の険を越え、東海道筋の恩顧の大名を倒して上方へ出ようとしたとき、正則の清洲城をもってその楯とする心算であった。
だからこそ彼に、羽柴姓を許し、侍従ともしたのである。
しかしながら当の正則は、そうした秀吉の"公"の配慮より、秀吉側近の三成が己れを疎略に扱うばかりか、秀吉に讒言(ざんげん)したと"私"の部分で恨みを抱きつづけてきた。
その感情の根源をたどれば、やはり嫉妬ということになろう。
正則は清正とともに、三成を殺害しようと図って果たせなかった私怨を、まんまと家康の掌にのせられ、利用されてしまった。

三成は葬ったが......

家康は会津征伐軍を解散せず、諸侯をそのまま傘下の東軍として、西上させるために正則をして、率先して己れの作戦を支持してくれるべく事前工作をおこなった。

軍議では開口一番、諸将の去就を問わねばならない。
敵につく者がいれば、直ちに国許へ帰り戦支度をするがよい、邪魔だては致さぬ、と家康は見栄を切りたい。

そうすれば、諸将はここで進退に窮するであろう。

勝負はこのとき、最初に口を開いた者の言で決まる。

「わしは内府どのに、同意はできぬ」

仮にも福島正則が立ちあがってそういえば、諸将はたちまち不戦論に傾き、この瞬間に東軍は不成立となったはずだ。

なにぶんにも会津征伐軍は、豊臣政権の借りものの集団である。
家康はひどく余裕のない表情で、稀世の謀略家・黒田長政、細川忠興、藤堂局虎らの智恵にすがった。

実際に正則を説いたのは、黒田長政である。

豊臣政権創設期の功臣・黒田官兵衛の嗣子である長政は、武辺好みから正則とは親しく、長政のものごとの本質を見ぬく眼力は、"策士"という言葉がよく似合った。

「治部少(じぶしょう。光成)の挙兵は、豊家の名を借りた己れの天下取りぞ。たばかられてはなるまいぞ」

長政は、正則が三成に向ける異常なまでの憎悪を剌激し、対戦への決意を迫った。

「されば、おぬしが明日の評定で、諸侯に先駆けて内府どのにお味方申し上げる、と大声
で切り出せば大勢は決しよう」

正則にどの程度の、時代認識と理解があったかは疑わしいが、この物狂いの直情の人にも、たった一つ、西軍=三成が勝利すれば――否、このままでは――いずれ自分は抹殺されるであろう、との判断、危機意識はあったようだ。

長政はこの正則説得の成功によって、後日、いちはやく筑前一国五十万二千四百余石を、家康から与えられている(通常いわれる五十二万石は、三代藩主・黒田光之の代から)。

三成に向ける、正則の嫉妬には前兆があった。

二年前の慶長三年、秀吉が死ぬと、前田利家とともに豊臣政権を代表することになった家康は、己れの勢力拡大のため政権を無視して、有力大名に対しての婚姻政策を押し進めた。

対象者の一人であった正則はこれに応じ、自ら進んで家康に働きかけ、家康の養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を、己れの養嗣子の正之に娶っている。

これに怒った豊臣政権の五奉行、四大老は、家康および正則らに抗議文をつきつけた。

このとき正則は、家康公との縁組みは秀頼公の将来を考えてのことだ、と弁明している(『関ケ原合戦記』)。

これはおそらく、正則の正直な告白であったかと思われる。

文治派に対する武断派の危機意識は、深刻なものがあった。なぜか。

彼らには、次代のビジョンというものがなかったからだ。

ただ、戦場を駆けて生き抜いてきた彼らには、家康を頼ることで道が開けるにちがいない、といった"勘"だけはあった。

むしろ、己れの抗争に勝ち残るために、家康を引き込んだとも考えられはしまいか。

正則は三成ら近江閥を討滅し、家康を担ぐことで自分たちも参加し得る豊臣政権の運営を夢見ていたのではないだろうか。

関ヶ原の合戦において彼は、東軍の先鋒として働き、多大な犠牲を払いながらも、群を抜いた活躍を示した。

戦後、論功行賞の結果、正則は清洲二十四万石から、いきなり安芸広島四十九万八千石に栄転。

彼の"読み"は当ったかのようであったが、歴史的にみた場合、はずれたといわざるを得ない。

豊臣家のみならず、己れの家も江戸期には存続し得なかったのだから。

慶長十九年(一六一四)から翌年にかけての、大坂の役で家康は、正則を江戸に足止めし

豊臣家を滅ぼした。

家康がこの世を去ったのは、その翌年のこと。

元和五年(一六一九)、今度は福島家が改易となった。

正則は信濃高井郡高井野村(現・長野県上高井郡高山村)に蟄居させられ、その五年後の

寛永元年(一六二四)に六十四歳で死去している。

加藤家は清正の子(三男)の忠広が継いだが、こちらも寛永九年、幕府によって取り潰された。

己れの嫉妬を利用された正則は、"読み"を誤った。

だが、同時進行で動く"歴史"を考えれば、あながちこの人物の行為を責めることもできまい。

2020年大河の背景も見えてくる「日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく」記事リストはこちら!

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加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪府生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学研究員を経て歴史家・作家として活動。大学や企業で講師を務める傍ら、独自の視点で日本史を考察、研究。著書に、『「図説」生きる力は日本史に学べ』(青春出版社)、『刀の日本史』(講談社)など多数。

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『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』

(加来耕三/方丈社)
「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」など歴史的な事件の数々を、その当事者たちの行動や発言から著者独自の史観で考察された一冊。事件をのぞいて見れば、「他者への嫉妬」が渦巻いていたという驚愕の事実が…。嫉妬深い日本人の民族性や、だからこそ作り上げられた文化、さらには歴史的人物たちが抱いた当時の思いにも触れられます。

※この記事は『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社) からの抜粋です。

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