織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!
男色は恐ろしい?!
織田信長の家臣であり、のちに〝加賀百万石〟の藩祖となった前田利家の生涯は、嫉妬の側面から検証してみるとき、大いに参考となる。
戦国武将として〝天下布武〟を押し進めた信長に、十四歳で仕えた利家は、累進して城持ち大名となり、やがて次代の豊臣政権下では、徳川家康と並び称される〝大老〟となったが、その出身は尾張国海東郡前田(現・愛知県名古屋市中川区)の土豪で、出自は荒子城主の前田利昌の四男でしかなかった。
天文七年(一五三八)に生まれているが、彼は本来なら前田家の家督を継げる分限ではない。
しかも利家は一度、織田家を牢人していた。
意外なことのようだが、利家は信長の寵愛を受けた時期があった。
俗にいう、男色である。
あとから考えれば、そのことが彼の前半生を決めた、といえなくもなかった。
ただし利家も、ほかの戦国武将の大半がそうであったように、〝両刀使い〟ではあったが。
彼は二十一歳のおり、前田家に以前から養われていた十歳年下の、「まつ」と祝言をあげており、二十二歳のおりには長女の幸にも恵まれていた。
当時の成人式=元服は、平均十五歳ぐらいであったから、イメージで捉えようとすれば、五歳ほども加齢して想像した方がいい。
ところが二十二歳の分別あってしかるべき利家は、血気にはやって同じ織田家の同朋衆・拾阿弥を斬り殺し、織田家を逐電するという事件を引きおこす。
ことの発端は、信長に寵愛されている利家に拾阿弥が嫉妬し、利家をこまらせるつもりで、その佩刀の笄刀を盗んだことにあった。
「念者嫉妬は嚊(かか。おっかあ)以上」ということわざがある。
ここでいう「念者」は男色関係で、若衆を寵愛する側の人をいう。
つまり、衆道の兄貴分のねたみは、夫婦間の妻の嫉妬よりも恐ろしい、との意だが、もしかすると念者=信長も加えて、三人は恋愛の三角関係にあったのかもしれない。
一方で当時の利家は、「奇者傾」として知られており、非常に短気な若者でもあった。
ここでいう「傾奇者」とは、戦国時代に一世を靡風した武辺者の一種で、性格のかたよりに加えて、異様な服装や行動をすることで、世間をアッといわせることに快感を感じるといった人々であり、利家も日頃から派手な拵えの槍をさげ、それをみた人々は、「又左(衛門)の槍」と、その存在に怖気をふるっていた。
ときは戦国時代、拾阿弥殺害は死罪に処されてもおかしくはなかったが、念者である信長はそのまっすぐな利家の気性に同じ、己れと同じ「傾奇者」の体質者を認めており、利家には出仕停止の措置をとってこの一件を落着させた。
とはいっても、主君信長の正式な許しが出ないかぎり、利家の織田家帰参は叶わない。
彼は以来、一途に信長を慕い、その尾張平定戦にも陣借りしつつ、必死の働きをつづけた。
信長の本格的な戦国デビュー戦=今川義元を奇襲した桶狭間の戦いのおりにも、無論、利家は参加している。
しかし、なかなか主君の赦免は出なかった。
普通ならここで腐ってしまい、他家へ流れて仕官してもおかしくはなかったが、利家は実直に織田家に拘りつづける。
そしてようやく、隣国の美濃国攻略戦の途次、帰参が許された。
人間は例外なく、苦労をすると謙虚になる。
他人に嫉妬されないようにするにはどうすればいいのかも、世間智として利家は理解できるようになっていた。
「天下、意の如くならざるもの、恒に十に七八に居る」(『書晋』)
人生には、どれほど努力をし、懸命に挑んでも、何ともならないことが、とにかく多い。
分限しかり。
そのことを肝に銘じられるようになると、嫉妬は押さえられる。
人間は一足飛びに、進化を遂げ得るもののようだ。
織田家に戻ったとき、利家は二十四歳になっていたが、この間、冷や飯を食いつつ、それでも一筋に信長を慕いつづけた点が、それからの彼を引き上げることにつながった。
嫉妬の深浅を計算した前田利家
結果、永禄十二年(一五六九)十月には、信長のお声がかりで通常は不可能な前田家の家督を継ぎ、知行二千四百五十貫をもらうこととなる。
以後も信長の命運を決する、すべての戦いに従軍。
前線指揮官としての武功を輝かせ、北陸方面軍司令官・柴田勝家の幕下に入った利家は、天正三年(一五七五)、越前国の府中城主(三万三千石)となる。
その後も順調に出世し、六年後の十月には能登国(現・石川県北部)一国を与えられ、七尾城主となった。
石高に直せば、二十三万石となる。
筆者はこのあたりが、利家個人の才覚の限界であった、とみている。
逆にいえば、彼は〝百万石〟の器ではなかった。
にもかかわらず、なぜ、利家は功名を遂げ得たのか。
すべては、〝嫉妬〟の活用にあった。
天正十一年四月、直属の上司である勝家と羽柴秀吉が、亡き信長の遺産相続をめぐって賤ヶ岳で戦ったが、このとき利家は明確な勝家への裏切りを決断している。
勝家と秀吉――この両者の対立にも、その根底には互いにむける嫉妬があった。
勝家には織田家筆頭家老としてのプライドがあり、叛将・明智光秀を家老末席の秀吉に、先に討たれたうらみがある。
討った秀吉が、世上から浴びた称賛への嫉妬も深かった。
一方の秀吉には、信長の草履取りをしていた頃からの、つもりにつもった勝家への、うらみつらみ、怒りと憎しみが燃えていた。
自らもむけられた嫉妬で苦労した利家は、この二人を実によく観察していた。
「善く人を用うる者はこれが下となる」(『老子』)という言葉がある。
人使いの名人は、相手の下手に出ることができるとの意だが、利家のみるところ秀吉は、へりくだることのできる達人であった。
門地家柄に恵まれなかったこの小男は、他人に嫌われぬように、常々細心の注意を払っていた。
が、一方の勝家にはそれがなく、むしろ成り上がり者の秀吉に対する、侮蔑と怒り、嫉妬があまりにも明白でありすぎた。
「おやじさま(勝家)は、天下の人心を得られるか......」利家は熟慮した。
天正十一年二月二十八日、例年にない大雪に見舞われたなかを、勝家はついに総動員令を発し、自領の北ノ庄(現・福井県福井市)から沿道を除雪しつつ、近江国に向けて進軍を開始する。
総勢は二万。
ときに勝家軍の先鋒は、猛将で聞こえた佐久間盛政であった。
一方、秀吉は勝家側についた織田信孝(信長の三男)を牽制するべく、五千の兵を割いて岐阜城外に包囲陣を敷き、自身は湖北の賤ヶ岳に急遽、陣地を構築して、その指揮を終えるや一度、大垣に入城している。
戦局の推移は、傍目には勝家軍有利に映った。
が、利家は戦いの行く末を、歴戦の将として冷静に見守っていた。
盛政は緒戦に勝利し、さらに四月二十一日には賤ヶ岳の秀吉方要塞を攻略する計画を立案する。
秀吉は直ちに、一万五千の軍勢を大垣から進発させた。
午後九時、秀吉は木ノ本(現・滋賀県長浜市木之本町)に到着。
勝家は木ノ本北方七キロの、狐塚まで出撃して来る。
賤ヶ岳北方に一時の退却を図った盛政を追い、秀吉は賤ヶ岳頂上の砦に入ると、二十一日午前六時、いよいよ盛政軍との間で、本格的な戦闘がおこなわれた。
戦況は混沌として、双方ともに一進一退がつづく。
まさに、この時であった。
突如、勝家方の利家の軍勢が、持ち場を離れて勝手に撤退を開始する。
「思うところあって、帰国いたす」
そう言い残して利家は、塩津の浜を経て越前敦賀へ、己れの軍勢を離脱させた。
当然のことながら彼の裏切りは、勝家方の全陣営を瞬時に瓦解させたといってよい。
通史ではしきりと、秀吉と利家の〝友情〟が説かれているが、残念ながらこの時代、後世にいう〝友情〟という概念はまだ存在していなかった。
ことの真相はあくまで、現実の苛酷さ――味方の勝家敗戦を読んだ利家の、自家保全のための方便以外のなにものでもなかったろう。
嫉妬深い勝家では、天下の輿望(よぼう)をになえない――これが利家の、決断の理由であった。
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