演歌界の大スターの八代亜紀さん。嘘をついて15歳でキャバレーで歌ったり、グループサウンズのボーカリストとしてデビューした過去も。今回はそんなエピソードを交えながら、八代亜紀さんの活躍の歴史がわかるお話をおうかがいしました。
歌手の道へ導いてくれた父の死を乗り越えて
――八代亜紀さんが世の中に広く知られるきっかけとなった1973年のヒット曲「なみだ恋」の作曲家である鈴木淳さんが一昨年亡くなられました。鈴木さんを偲び発売された八代さんの新曲「想い出通り」は、鈴木さんの妻であり、「なみだ恋」の作詞を手がけた悠木圭子さんが作詞、八代さんは作曲をされています。
私も知らなかった悠木先生の深い愛情を知りました。
歌詞を読んで、すぐにイントロから曲が浮かびましたね。
誰しも愛しい人とのつらい別れがあります。
50年連れ添ったご夫婦ですから、悠木先生の別れはどんなにつらかったかと思います。
私も父が62歳で亡くなったときは涙が止まりませんでした。
私はいつも、新曲をレコーディングするとテープに収めていち早く父に届けていたんです。
そんなとき父はいつも玄関で私が来るのを待っていてくれたのですが、父が亡くなったその年の新曲は「花束(ブーケ)」という演歌ではない、ポップス風の曲。
それを私は言い出せなくて、曲を届けることができなかった。
父は、テレビで私の新曲披露パーティーを見て知ったようで、その後「亜紀、あれが新曲かい。よか歌だね」って言ってくれました。
その新曲を引っさげての九州ツアーの最中、父の具合が悪くなったんです。
毎日電話をして、ツアー中の休日に、すぐ実家に帰りました。
父は「亜紀、きつかったね(大変だったね)。早くお休みなさい」と優しく私を迎えてくれたのですが、翌朝起きたら、息をしていないんです。
とても受けいれられなくて、ずっと嘘だって頭の中で言い続けていました。
親不孝したと思いましたね。
つらくて、「花束(ブーケ)」を歌い出すと泣けてきて...。
1年ぐらいダメでしたね。
でもこのままじゃいけないと思って、父のことを思うのは胸のところまで、と決めました。
頭のてっぺんまで埋めちゃダメだって。
毎日徐々にならして、30年たちましたけど、いまもまだ、父への思いは胸の中にあります。
淡谷のり子先生に「アンタの歌、嫌い」と言われ
――歌手をめざしたきっかけはお父様でしたね。
父が、私が12歳の頃に買ってきてくれたジュリー・ロンドンのレコード。
それが歌手をめざしたきっかけです。
ジャズシンガーだから、一流のスター歌手はジャズクラブで歌うのがステイタス。
私もそうなろうと思いました。
ちょうど父が運送会社を起こして軌道に乗るまで大変だったので、歌手になって私が助けようと思い、15歳になったときに18歳だと嘘をついてキャバレーの面接を受け、そこで歌い始めたら、父の会社の従業員さんがお客さんでいらしていて、3日目でバレてしまいました。
父には「あの優しい亜紀が不良になった!」とひどく怒られて、本当に怖かった。
「出て行け!」って勘当されてしまいました。
そこで母が、東京の目黒に住む新婚のいとこ夫婦に頼んでくれて、そこから音楽学校に通うことになりました。
当時16歳。
4畳半に川の字で、新婚さんと寝かせてもらって(笑)。
その頃にスカウトされて、グループサウンズのボーカリストとして一度デビューしているんです。
でもぜんぜん売れなくて、月謝が払えないから学校も辞めました。
「私の健康法は毎日歌って、笑っていること。1日2ステージ、これ以上に体力を使うことはありません(笑)。後は食べるものにお酢をかけること。お酢をかけるとさっぱりして風味が増すんです。何でもかけます。おすすめは納豆。一度やってみてください」
――金銭面でも苦しい時期、どう切り抜けられたのですか。
当時、新宿に美人喫茶というのがあって、だいたい70円のコーヒーがそこではなんと600円。
ボーカリスト募集の案内を見て応募しました。
熊本の八代でバスガイドをしたときがあり、そのときのお給料が7000円だったのに、ここではギャラが10万円。
やった!と思いました。
そうして歌っているうちに、銀座のナイトクラブからスカウトがあって、今度は20万円! お金に釣られて銀座に行きました(笑)。
銀座では、3軒くらい転々として最終的には「エース」という店に落ち着きました。
常にスカウト5~6人に追いかけ回される毎日で、いよいよレコードを出しなさいと皆に言われるようになりました。
クラブシンガーは楽しかったので辞めたくなかったのですが、レコードを出したら、世の中のつらい思いをしている女性にも届けられる。
それでデビューを決意したんです。
でも、2年たっても全然売れないんですよ。
このままではダメだと一大決心して、全日本歌謡選手権にチャレンジしました。
これはプロもアマも同じ条件で、10週勝ち抜かないといけない厳しい大会なんです。
地方各地のステージで歌うのですが、審査員の1人が淡谷のり子先生で、10週間「アンタの歌、嫌い」と言われ続けましたが、それも耳に入らないぐらい必死でした。
こういうとき、ライバルは他人じゃない、自分なんです。
おかげさまで10週勝ち抜いて、3カ月後に「なみだ恋」が発売され、100万枚突破のヒットになりました。
――ヒット曲が出るまで、長い道のりでしたね。
売れるまで大変だったね、とよく言われるのですが、私は夢の方が勝っているから大変じゃなかった。
私の夢は最初からずっと同じで、お客様の前で仕事して「ありがとう、良かった」って言われることなんです。
それでスタッフと打ち上げして「今日も喜びをもらえたね」と乾杯するのが好きなの。
これがいまも続けられている秘訣だと思います。
――フランスの歴史あるル・サロン展に5年連続で入選。画家としてもご活躍です。
実は歌より絵の方が長いんです。
戦争があって、父は絵を描くどころではなかったから、私に託したみたいです。
英才教育で、すごく描かされました。
幼い頃は私も画家になると思っていたくらいです。
ジュリー・ロンドンといい、父の思いが私の人生になっているんですよね...。
父は曲がったことが嫌いで、弱きを助ける人でもあったから、橋のたもとで寒そうに震えている人がいると家に連れてきちゃうんです。
その人、帰る家がなくなってしまったんですよ。
そういうことが何度かあって、知らないおじさんと家の中で何度も遭遇しました。
その人たちは母にごはんを作ってもらい、うちのお風呂に入って、1カ月くらいしたら何も言わずに出ていっちゃうの。
そうすると父は「あのおじさんなぁ。自分の住みやすいところに戻ったんだな」って。
母は母で、私とスタッフの朝ごはんを必ず作ってくれました。
朝、家を出るのがあまりにも早過ぎて、何も食べられないまま車に乗って行こうとしたら、みそ汁持って追いかけてきたことも(笑)。
私も父と母に似たんでしょうね、
慰問活動などを続けています。
行きたいんです。
それで「ありがとう」って言ってくださるとうれしい。
世の中には人知れず、つらい思いをしている女性がたくさんいらっしゃると思いますから。
今回のシングルには「なみだ恋2023」も入っています。
新しいアレンジで、さわやかな「なみだ恋」になりました。
50年前の「なみだ恋」は夜の新宿という印象ですが、今回は昼の「なみだ恋」。
いろいろな思いをかみしめたいまだから歌える感覚があります。
父に追い出されなかったら、いまの私はない。
「追い出してくれて、ありがとう」って毎朝、父に手を合わせて拝んでいます。
取材・文/多賀谷浩子 撮影/齋藤ジン ヘアメイク/大内聡子 スタイリスト/川村博代